天下人の豊臣秀吉は、なぜ千利休を切腹させたのか?その理由は?

信長が重用した千利休を本能寺後に召し出して、自らの”茶頭(茶坊主)”に据えた秀吉は、9年後に自ら利休に切腹を命じることとなります。大番頭の異父弟秀長を失って、更に続けて名参謀を殺すと言う自殺行為をなぜ犯すのか、その真相を明らかにして行きます。

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千利休はどんなひとなのか?

利休は大永2年(1522年)に和泉国堺の商人・納屋衆田中与兵衛の子として生まれ、本名は田中与四郎と云います。
若い頃より茶の湯の道に入り、長じて今井宗久・津田宗及とともに”天下の三宗匠”と呼ばれました。

織田信長は将軍足利義昭を奉じて上洛したあと、三好三人衆とともに抵抗する自治都市堺に対して武力侵攻します。

その戦いで堺が信長要求の矢銭2万貫を払って屈服し、信長直轄地となった永禄12年(1569年)以降に、利休は今井宗久らによって”茶の湯”に目覚めた”信長の茶頭”の一人としてスカウトされました
この時期の利休は、信長の”茶の湯の政治利用”の有力な協力者として活躍し次第に地歩を固めて行き、それは信長と持ちつ持たれつの関係を維持することに全力を挙げていた堺の商人たちの大きな力ともなって行きました。
ところが思いがけず、天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり信長がいきなりいなくなります。

しかし次の権力者となったのは信長の臣下の豊臣秀吉でした。そのため引き続き秀吉にも茶頭に乞われて、利休の”茶の湯”は一段と”政治の道具”と化して行きました。
この頃から、利休の”茶の湯”は多くの政経済界の有力者の知己を得て、”道”にまで高まって行き、”茶道”として、簡素な芸術性を求める方向(わびさび)に変って行きました。

利休は徐々に従来通り『政治の道具』・『権力の象徴』として使い続ける秀吉の俗物根性に嫌気がさし始めます。

その為、利休と権力者秀吉との距離は徐々に開いて行くこととなりました。

そして天正18年(1590年)に北条との”小田原の戦い”の陣中で、追放中の一番弟子の山上宗二が秀吉に惨殺される事件が起こったのをきっかけに、はっきりと秀吉を拒絶し始めます。

翌天正19年に入って秀吉は、自分の意に逆らってばかりいる利休を疎ましく思い、政権からの排除を求める石田三成らの讒言も取入れて、云いがかりをつけて蟄居・切腹を申付けます。
しかし、秀吉の本音は本人の謝罪さえ入れば死罪にはしないつもりだったと考えれますが、利休は秀吉への諫言の意も込めて謝罪に応じず死罪を受け入れます。

 

この年天正19年(1581年)、秀吉は1月に政権の大黒柱で最も信頼している異父弟羽柴秀長を失くし、この2月に大事なブレーンの利休を自らの手で殺してしまう事になりました。

ここから1年後(1592年)には朝鮮出兵(文禄の役)が始まって、大事な導き役を二人も失くした秀吉の暴走が始まって行き、本人の死(1598年)とともに実質豊臣政権は崩壊の憂き目に遭うことになります。

秀吉の黄金の茶室
(画像は秀吉の黄金の茶室です)

豊臣秀吉はなぜ千利休を重用したのか?

千利休は自由都市堺の支配階級である納屋衆(会合衆ーえごうしゅう)の一員でもあります。
日本の商業流通、海外貿易の拠点である堺には日本中のみならず、海外の情報があつまる重要な国際都市でした。

ネットワークが未発達のこの時代に、ありとあらゆる情報と財貨・文物が集まる町堺にいち早く目をつけたのは、あの時代の寵児織田信長です。

この信長のやり方を徹底的に学んでいる豊臣秀吉は信長の革新的な手法を継承して行きます。

その内のひとつが”茶の湯”でした。

この武将たちの人心掌握術としてこれほど妙味のあるものもないと感じていましたし、しかも、”宴席”と同じ効果を持つわけですから、営業テクニックとしても最上のものと考えていたはずです。

まして、利休は”宝の山の町堺”の支配層の一員なのですから、人と人とのネットワークの大事さを知る秀吉とすれば得難い人材です。

幼いころよりの武士としての最低の素養も勉強する機会のなかった秀吉は常日頃学び続けていたと思いますが、最大の師である信長を失ったあとは、利休は秀吉の大きな精神面での支え(師)であったと思います。

また、信長の下で京都奉行をやっていたことのある秀吉は、京都の朝廷・公家衆との折衝は大変厄介なものであることを良く知っていました。

利休は”天下の三大宗匠”のひとりですから、”茶の湯”の弟子筋に朝廷の有力者も揃っている訳です。

そのつながりを通して気骨の折れる京都の公家衆との折衝は利休に任せれば無骨な武将がやるのとは大きく違ったものであったことは想像に難くないですね。

こうして徐々に利休の政務に関する関与は大きくなって行ったと思われます。

そして、そうなると世の人々は利休に内々の相談に行くようになり、結果秀吉は少しづつ政権が利休に操られる不安を感じ始めます

一方、、、
この秀吉のような権力者(戦国大名)が天下の覇者へ拡大成長をして行く経過に於いて、最初に手本(憧れ・目標)があり(秀吉の場合は織田信長)、その後ライバルを蹴落としていく戦いを含めた競争に於いて必要なものは軍略・民生に長けた”軍師”です。

その後、継続してライバルたちの上に立つためには、圧倒的な軍事力だけで抑え込むこと(信長の失敗が反面教師となります)は極めて困難です。

そのために政治的にライバルたちを束ねて行く必要性があり(例えば権威を利用する等)、これを立案・実行出来る政治アドバイザーの存在が待たれます。

これが秀吉にとっては千利休ではなかったかと思います。

以上のプロセスを考えた場合に、秀吉にとって最初の段階で必要な人材は、ライバルとの戦いに勝利して行かねばなりませんから、竹中半兵衛黒田官兵衛だったと思います。
秀吉が覇者に近づき始めた段階では、この両刃の剣となる”軍師・軍略家・謀略家(この場合は黒田官兵衛)”はもはや不要となり、危険を避けるために力をつけさせないように、功労者ではありますがドンドン政権の中心から遠ざけて行くことになります。

次に天下統一が完成間近となり、自分自身が”権力者・権威”と自覚されるようになると、今度は初期の頃と比較にならないほど影響力を強めているこの政治アドバイザー(この場合は千利休)が目障りになって来ると言う流れだと思います。

秀吉の千利休の利用の仕方・重用した理由はこんなものではなかったかと思います。

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豊臣秀吉はどうして千利休を殺したいほど怒ったのか?その理由は?

 

利休を重用していたのは、秀吉もさることながら秀吉の異父弟で政権の大黒柱である豊臣秀長その人でした。
利休の真摯なアドバイスをきちんと聞いて兄秀吉の横でサポートしていたと思われます。

秀長が体調を崩して参戦できなかった北条との戦あたりから、秀吉と利休は修復不能の感情的な諍いに陥って行きます。

天正13年(1585年)に関白を拝命し、名実共に天下人となった秀吉は徐々に自分の意に染まぬ他人の助言に耳を貸さなくなっていたのだろうと思います。

それでも二人の関係が続いていたのは、ひとえに秀長の力だったのはないかと思います。

秀吉激怒の原因ですが、通説では、、、

①大徳寺の門の改修時に利休が自分の木造を楼門に設置し、その下を秀吉に通らせた不敬

②茶道に対する考え方で対立していた

秀吉の政策に口を出し始めその増長に我慢できなくなった

④茶道具の目利きに関して、利休の一声で高額になることが気に入らなかった

等々言われております。

ひとつひとつ見てみますと、、、

①に関しては、最も有力な理由と言われています。

しかし、2年以上も前のことで、関係者以外は知らない話で実は件の木像の話は、大徳寺側の自由判断で安置したのもと言われていまして、利休自身も知らなかったと言われています。

少し時間の経過があり過ぎるので、これが原因とすると後年家康が豊臣家に難くせをつけた方広寺の鐘銘事件と酷似していますので、云い出した意図もおなじ”云いがかり”でしょう。

しかし、こんなインサイダー情報が出て来る背景に利休の出世を面白く思っていない人物がまだ背後に存在することを示しているようです。興味深いですが、ここでは秀吉が即反応した理由とならないでしょう。

②に関しては、勉強家の秀吉は一端の茶道家気取りで、自分の政治利用目的と合致する”茶の湯”の派手さに利用価値を見出していた向きがありますので、利休が極めて行った芸術性を受け入れる謙虚さは持ち合わせていなかったと思いますので、ここは衝突する原因とまでは言えないでしょう。

④はそこまで秀吉の人間が小さいとは思えませんので、取り巻きの能吏たちの屁理屈だと考えるのが妥当です。

どれも有りそうですが、この中で感情的な”無礼打ち”でないものがひとつあります。

前段の秀長の病気により、秀吉の押さえになるものがいなくなって来ている状況があるので、やりかねないものばかりですが、やはりここは本当に秀吉の政策面での邪魔になるものが原因となるはずです。

そう考えると、③の政策面での対立である可能性が高く、これは特に”唐入り〈朝鮮出兵ー文禄の役)”への反対意見を指すものと思われます。
私は、秀吉が大切な後継者を殺してしまう『秀次の事件』も”秀頼のお世継ぎ問題”よりも、実はこれ(この時は慶長の役への反対意見)ではないかと思っています。

 

とにかく秀吉は信長の夢を実行する”唐入り”に反対するものは許せなかったのでしょう。

その点、秀吉の自滅を待って次を狙っていた徳川家康は表立っての反対は一度もしていないのです。

当時、一番力があって他の武将たちの苦境を助けられる立場にあったにもかかわらず、秀吉にお諫めの言葉ひとつ掛けていないのです。

やはり、徳川家康は賢き人ですね。(関西弁で”賢いなぁ”は”ずる賢い”も含まれます・笑)

他人のためになる事でも自分の身の危険と見たら、絶対にしないのですね。

政権近く(秀吉の近く)にいる人物の内、三成だけは秀吉の”野望”を最後まで助けようとするわけで、結果多くの武将たちの恨みを買うことになりますね。

この辺りの呼吸が家康は絶妙なんでしょうね。

外国人にも秀吉の正体は見えていたようで、信長時代から日本で布教活動をしていた宣教師ルイスフロイスの書き残した『日本史』では、秀吉のことを”暴君”と呼んでいます。
利休もそんなことは百も承知だったはずなんですが、ずっと自分を騙し続けることに疲れて来て破滅に向かってしまったのかもしれません。

もうこの時点で利休には豊臣政権の行く末は見えていたはずです。

 

千利休はどこで切腹したの?それからどうなったの?

 

秀吉に利休の一番弟子山上宗二が残虐に処刑された小田原での北条攻めの翌年天正19年(1591年)1月の茶会で、秀吉の嫌いな黒色の黒楽茶碗を用いて、秀吉への抗議・いやがらせをおこなった利休に対して、庇護者の秀長が病没して1か月ほどした2月23日に、突然秀吉は利休に対して京都から出て堺の自宅での蟄居を申付けます。

 

そしてその罪状は利休が参禅していた京都大徳寺の山門(金毛閣)が2年前に利休の私財で改修されたが、その時に、『雪駄を履いた利休の木像を山門の中に安置し、参拝する秀吉にその下をくぐらせようとする不届き無礼を働いた』と云う云いがかりでした。

山上宗二の一件以来、悪化の一途を辿っている利休との関係を利休側から歩み寄らせようとした秀吉一流の一計だったようですが、利休に敢然と拒否され引っ込みのつかなくなった秀吉は2月25日に利休を聚楽第へ呼び戻し、2月28日に聚楽第内の利休屋敷に待機する利休に使者が切腹を申付ける事態となってしまいました。

利休のクビは京都一条戻橋で梟首され、問題となった大徳寺の利休の木像に踏みつけられる形でさらされました。

古田織部、細川忠興など大名弟子が奔走したものの、その命を助けることは出来ませんでした。

その後、秀吉の茶頭は古田織部が継ぐこととなり、秀吉没後は家康に命じられて2代将軍秀忠の茶頭を務めますが、次第に利休と同じように秀忠に対する影響力が心配になった家康は、大坂夏の陣の終了後に豊臣方と内通したと云いがかりをつけて古田織部を切腹させてしまいます。

 

この出来事は秀吉に限らず、権力を握ったものは権力の座を失うことに恐怖して、同じような危機感を持ち、過剰に小心になるものだと言う事を教えてくれているようです。

しかし、死して尚、子孫がその偉大な芸術家千利休の業績を引き継ぎ、現在においても世界に誇れる美と哲学の芸術『茶の湯』として伝えられています。

 

千利休を切腹させてしまった後、豊臣秀吉の心情は?

秀吉は利休を切腹させた4年後の文禄4年7月(1595年)に甥で後継者の関白秀次を切腹へ追い込みます。

そして慶長2年(1597年)には2度目の朝鮮出兵(慶長の役)をおこない、翌慶長3年(1598年)3月15日に京都醍醐寺三宝院にて史上有名な”醍醐の花見”を行います。

その後体調を崩し、同年8月18日に61年の生涯を終えます
晩年、秀吉は利休を切腹に追い込んだ自身の短慮を後悔し、利休を偲んで利休式の食事を摂り、利休の好んだ枯れた茶室を立てさせたりしたと伝えられています。

 

そんな事から考えますと(私見ですが)、、、

あの天正19年(1591年)2月4日に奥州の伊達政宗が、奥州で起こった一揆の首謀者と思われたことに対する派手なパフォーマンスで申し開きに上洛し、とうとう懸案の伊達政宗を完全に屈服させた勢いから、言う事を聞かない生意気な利休に切腹を申付けたが、本音は伊達政宗のように屈服して謝罪してほしかっただけではなかったかと推察出来そうです。

秀吉は勢いで云いだした手前、立場上もあり自分から折れることが出来ないので、どうしても利休から謝ってほしかったのですが、これも宣教師ルイスフロイスの言う”暴君(秀吉のこと)”のなせる技でしょう。

結果、そんなことは百も承知であったはずの利休でしたが、頑なに拒まれてしまい、秀吉はそのまま切腹をさせるしかなかったのです。

利休切腹後、諫言した?秀次も殺害したのですから、やはり何の反省もしておらず先の行動も”ただの老人の寂寥”に過ぎないのではないでしょうか。

 

他の武将と利休の関係性はどうだったのか?

 

石田三成は千利休をどう思っていたのか?

先般、NHK大河ドラマ『真田丸』をみていると、石田三成が北条攻めの戦いを避ける戦略で秀吉を誘導しているにも拘わらず、秀吉は焦るように北条攻めを急がせる場面があり、秀吉のところを下がってから、不審に思った三成が真田信繁に『源次郎!昨日利休殿は殿下のところには参らなかったか?』と質問し、『来ておられます。』と真田信繁が答えると、三成は『彼のご仁は殿下の喜ぶことばかりお話になる!』と吐き捨てるように云う場面があります。

これはこのドラマの脚本家三谷幸喜氏が、秀吉の政治戦略へ利休に口を出されて、三成が自分の側近(参謀)としての地位を脅かされている苛立ちを表現されたシーンだと思われます。
史実では、利休と秀吉の関係は天下統一の最後の大仕事である秀吉の天正18年(1590年)の”小田原攻め”を境に大きく亀裂が入って行くことになります。

最初の頃は三谷氏の描くような態度で利休は秀吉と接していたと思われますが、やはり信長の茶頭の一人だった利休からすれば、信長の丁稚・小僧ようなものだった秀吉が天下人に急成長して行くに従って態度を変えて行くのに戸惑っていたのは事実だろうと思います。

本来、”師匠と弟子の関係”と云うものは権力と政治の世界とは無関係であるのが常識な訳ですが、秀吉は権力者になると師匠を侮り始め、徐々に支配すらしようとするわけですからドンドン関係が悪化するのは当然の帰結と云えそうです。

そんな状況ですから、利休と秀吉が話し合ったとしても小田原攻めのことで秀吉が喜ぶような助言をするとは思えないですね。

ドラマの脚本にあるような、あの時期に三成が眉をひそめて利休のゴマすりを問題視すると云うような三谷流の見方は少し真相から離れていて、違うような気がします。

三谷幸喜さんの意図は多分利休切腹へ三成が動いて行く理由のひとつにこの創作エピソードを加えたんだろうと思います。

石田三成は、この1年後に秀吉の作ろうとする世界に反対な立場を取っている目障りな存在である利休に対して、危険視し排除しようとして行くことになるのですが、この時期はまだそこまでの考えはないかもしれませんね。

この辺りの話は、利休の”切腹問題”にも絡むので次の章で詳しく見て行きたいと思いますので、本筋に話を戻しますと、、、

三成は武将でもない利休には”お茶会のイベントプロデューサー”を期待していただけだったと思いますが、予想に反して、秀吉の”相談相手”に昇格して行くのを驚きのと困惑の目で見ていたものと考えます。

それは、織田信長と豊臣秀吉の違いを三成が理解してないことから来ているのだと思います。

信長は天才的な戦略家だったので、利休ら茶頭を手足のように使っていました。
ところが、秀吉は信長のようなカミソリではないので、どうしても利休をアドバイザーとして使おうとしてしまうのですね。

厄介なことに、利休は秀吉の側近・側用人役を自認する三成を全く通さずに、直接秀吉と話をしているのですから、三成としては全く面白くないはずです。

 

徳川家康と千利休の関係はどうだったのか?

 

私たち一般人の目に触れる話に、利休最後の公式の茶会は天正18年(1590年)10月20日に聚楽第利休屋敷で博多の豪商神谷宗湛(かみや そうたん)一人を招いてのものだったと伝えられています。

しかし、異説では、切腹の1か月ほど前に同じく利休屋敷で徳川家康一人を招いて開かれたとも言われています。

基本的に家康は”茶の湯”には興味を示さず、他の諸大名のように入れ込むようなことはなかったようです。

理由としては、”茶道”の目指す世界と、家康の理想とする儒教精神と相いれないのが原因と言われています。

つまり、この点において利休の人脈構築図の中に家康が入り込んで来ないことになり、茶の湯を通じた仲間ではなかったことが想定されます。

利休は信長の茶頭として信長の政策に協力していましたので、当然家康とは顔見知りであることは間違いありません。

『本能寺の変』以降、秀吉が天下取りに入り、利休も信長からそのまま秀吉へ引き継がれて行った関係上、利休は家康にとって武将のような利害関係のない重要人物であったことを考えると、家康がほったらかしておいたとは思えません。

秀吉のあと、徳川の御代になっているので、都合の悪い文献として処分されて利休との交流履歴が見つからないのかもしません。

私は家康の外交センスからして、利休との政治関係が存在した可能性は高いと思っています。

そんな中で、利休最後の茶会のお客が家康だったとの異説があるのはとてもおもしろいですね。

情報のやり取りは通常のやり方、飛脚便または知人を介するやり方ではなく、おそらく家康は伊賀者を使って連絡を取っていたのではないかと推測します。

三成らの秀吉側近(近江グループ)と旗本武功派(尾張グループ)・家康は対立構図が出来上がっていたわけですから、家康としては、秀吉の相談役である利休が一番秀吉に近い重要な情報源となるはずです。

家康と光秀の接近というような、もし何らかの関係があったとすると最後の茶会で家康と密談しているのは興味深いですね。

そう云う風に話すと如何にも利休と家康が密約で結ばれた同志のようなことになりますが、実のところ表に出て来る資料はなにもなく、つまり証拠はないのですが、結果秀吉に臣従してからのそつのない家康の行動をみると、外部情報だけでなく政権内部からの情報を得ていたような、そんな気が私にはするのです。

それくらいが根拠となりますが、あの当時の武将では家康の諜報活動の実力が一番上(小牧長久手の戦いでは本拠地であるはずの秀吉が惨敗をしています)だった訳ですからそれくらいの事はあっても当然と思っています。

これが利休ー家康スパイ説のもとになっているようですが、利休ははっきりしたスパイではなくとも、家康の重要な情報源であった可能性は高いと私は踏んでいます。

 

 

利休と家康はおそらくそうした関係性だろうと思っています。

 

まとめ

 

中世安土桃山時代の日本最大の商業都市である和泉国堺の納屋衆(会合衆)の重鎮であるとともに、豊臣政権の相談役として豊臣秀吉の片腕となっていた稀代の茶人千利休”の栄枯盛衰を眺めて来ました。

日本を代表する文化のひとつである”茶の湯”発展の基盤を形作り、脈々として永続する茶道家元”千家”の創始者である千利休は歴史上の人物として長く人々の記憶に刻まれることとなりました。

そんな人物の不可解な死の原因について天下人豊臣秀吉との人間関係を見つめてみると、一度手にした”天下人の権力”と云うものが、この人懐っこく”人たらし”と言われるほど先回りして人を喜ばせて来た達人秀吉をしてただの”権力の亡者”にさせてしまっていたことが分かって来ます。

権力を手放すことに恐怖し、その地位を奪われそうなものを力ずく排除する鬼です。

秀吉は『大きな夢と理想の段階』では、師匠でありボスである信長のやり方をまねて学び、『武将として飛躍する段階』では、戦術の知恵者たる軍師竹中半兵衛・黒田官兵衛を重用して勝利を重ね、『大名・政治家として覇権を目指す段階』になると政財界に広いネットワークを持つ千利休を政治顧問にします。
そして、利休の茶の湯ネットワークを利用して『天下人となった段階』からは、思い通りにやりたい秀吉に対して、指図を始め意見をする利休を秀吉は疎ましく思い始めるのです。
それを側近の能吏石田三成らが秀吉の意志を、汲み取って利休に云いがかりをつけ、排除する動きに出たというのが真相なのではないでしょうか。

現代においても日本の隣国に国民を権力と暴力で押さえつけて、一党独裁の権力維持・体制維持を図っている大国が現実に存在します。

あの中世のような政治体制の国を見ればよくわかりますが、治安維持の名目で、『国家反逆罪』・『国家転覆罪』など罪状をつけて、辛口の政府批判者を排除しています。

当時の豊臣政権の能吏らはそんな発想で”天下の茶人千利休”を危険人物と見なして抹殺したのです。そんな風に見るとよくわかると思います。

『豊臣秀吉はどうして千利休を殺したいほど怒ったの?』の章で考察したように、利休のたいていの直言には我慢していた秀吉でしたが、どうしても許せなかったのは『唐入り(朝鮮出兵)政策』に反対(恐らく強硬に反対)した事だと思われます。

信長の果たせなかった天下統一を果たした秀吉は、あとは『唐入り』さえ成功させれば、信長の夢を実現できることになり、自分が完全に師匠を超えれることになる訳ですから、どうしてもその政策(秀吉の夢)に反対する利休を許せなかったのではないでしょうか。

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