関ケ原の戦いで裏切り者と言われる小早川秀秋!本当はどうなの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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関ケ原の戦いを東軍勝利に導く決定的な寝がえり(裏切り)をやってのけた小早川秀秋の実像に迫り、寝返りの真相・その理由とその後の秀秋のことなどすっきりわかるように解説いたします。

小早川秀秋ってどんな人なの?

小早川秀秋は、天正10年(1582年)に秀吉の妻寧々の兄の木下家定の子として生まれ、3歳の時に子供のいない秀吉の養子となりました。

7歳の時には丹波亀山(現京都府)10万石の領主となり、10歳の時には中納言に任官し豊臣姓を名乗って秀吉の後継者候補(秀次のサブ)となりました。

農家の息子に生まれながら一代で権力者となった豊臣秀吉には、一族に政権を支える人材が実弟の小一郎(羽柴秀長)以外に見当たらず、しかも実子がいなかったため一族の子弟を急いで育成する必要性がありました。

小早川秀秋は本人の意志とは関係なしに、同じ境遇で後継者となった関白秀次(1568年生、秀吉の姉の子)のサブとしての地位を背負う運命にありました。

ところが、文禄2年(1593年)に秀吉の実子、運命の子秀頼の誕生によりこの秀吉の後継者ふたりの運命は大きく変転して行きます。

秀吉は実子秀頼に確実に政権を引き継ぐことを画策し、2年後の文禄4年(1595年)に関白に任官していた跡継ぎの秀次の粛清、一族係累根絶やしに及びます。

小早川秀秋は幸運にも、毛利対策に頭を痛めていた軍師黒田官兵衛により毛利家の跡取りとして、秀頼生誕の翌年文禄3年(1594年)に実子のいなかった小早川隆景の養子として小早川家に送り込まれ、秀吉の粛清の魔手から逃れ得ました。

しかし、秀次事件の影響は他家に出ていた秀秋にもおよび所領の丹波亀山10万石を没収されてしまいます。

これに養父小早川隆景が反応し、自分が隠居し秀秋に筑前30万石を譲り、形の上では、転封の上加増となりますが、中央から遠国へ飛ばされてしまいました。

慶長2年(1597年)に慶長の役が発生し、秀秋も渡海して参戦することになりましたが、翌年帰国命令とともに越前へ転封の上15万石へ減封され、秀吉の理不尽な処分は続きます。

慶長3年(1598年)の秀吉の死後に、家康の計らいで元の筑前30万石への復帰が叶います。

こうして、秀頼の誕生後に秀吉の妄執によって運命を操られ豊臣政権に対する憎しみは増し、反対に家康には借りが出来てしまいました。

幼い頃、秀吉の子として秀吉の妻寧々らに見守られながら大事に育てられた身の上からは想像も付かない仕打ちを、秀頼誕生後に秀吉から受けて心がすさんで行ったようです。

そんな状況のまま、慶長5年(1600年)の関ケ原の戦いを迎えることとなりました。

関ケ原の戦いの決戦地
(写真は”関ケ原古戦場の決戦地”です)

秀秋はなぜ西軍を裏切ったの?その理由は?

その”関ケ原の戦い”本戦で秀秋は参陣軍中、東軍徳川家康3万、西軍宇喜多秀家1万7千に次ぐ大兵力の1万5千の大軍を引き連れて、絶好のポジションの松尾山山上に西軍として着陣しました。
朝霧の晴れ始めた午前8時頃に戦いは始まり、1刻くらい経った午前10時頃になっても戦場で戦っている西軍は主力の宇喜多勢、三成勢、小西勢、大谷軍勢で、笹尾山の島津勢、松尾山の小早川勢、南宮山の毛利勢などが静観視したままでした。
三成は参戦を促すのろしを度々上げるものの反応は全くない有様で、しびれを切らした三成は単騎松尾山を駆けのぼり、小早川秀秋のところに参戦確認をしに行く始末です。
奮戦の西軍兵士も疲労で動きが悪くなり、東軍に押され始めた昼過ぎ頃、東軍の家康陣営から小早川勢の松尾山へ鉄砲の打掛があったとか言われてますが、それを合図にするように小早川勢は東軍にではなくて、奮戦する西軍の大谷勢の側面になだれ込みます。

誘い出されるように、小早川勢の前面に布陣していた、脇坂安治・小川祐春・赤座直保・朽木元綱の諸将4400も東軍に寝返り、合計2万近い軍勢が東軍に寝返って西軍に襲い掛かります

その間、西軍の島津勢、毛利勢、長曾我部勢は動かぬまま静観視し続けました。

こうして夕刻までに東軍の地滑り的勝利に終わったのが”関ケ原の戦い”の顛末ですが、この原因となった小早川勢に何があったのでしょうか?

秀秋は12歳の時に小早川隆景の養子となりますが、その折、秀吉から平岡石見、稲葉正成らが付け家老として家臣団を率いてついて行きます。

彼らと秀秋は親子同然の間柄であり、東軍に属している武功派の諸将とも近い心情、つまり反三成派であったことが、秀秋の決断に大きく影響を及ぼしたものと考えられます。

形の上では、家康の調略に乗ったことになっていますが、中味は反三成で、毛利家の吉川広家もすでに反三成を決めていたと考えられます。
私は、小早川秀秋は逡巡して決断できずにいたわけではなく、西軍兵の疲れを待って、満を持して寝返ったと考えています。
当然迷いは有ったと思いますが、それは出陣前の話だと思います。
東軍の伏見城を落したことについては、筑前(九州)から移動する際に関西の西軍軍団の中を通り抜けるにはほかに手がなかったからではないかと思います。

結論としては、最初から東軍と決めていたと云う事でしょう。
それほど朝鮮出兵、特に蔚山城の戦いの『仕置き』に関して、実際に戦った武功派諸将の三成を中心とする”文治派”近江・畿内のテクノクラートたちに対する反感・恨みが強烈だったという事で、それを巧みに家康が煽っていたというのが理由ですね。

 

関ケ原の戦いで小早川秀秋はなぜ動かなかったのか?

実際の戦いを繰り返しになりますが、もう一度見てみますと、、、

小早川軍は関ケ原に着陣するに当たって、大垣から西軍としてその場に先陣していた元大垣城主伊藤盛正を追い払っています。

これは敵対行為とまで云えませんが、1万5千の軍ですから、そのまま飲みこんでもよかったのをわざわざ三成の着陣する笹尾山へ追い出しています。

その後の西軍の着陣配置からすれば、皆小早川軍は西軍だと頭から決めていたようですね。

小早川軍にはもうすでに東軍徳川方から軍監(戦目付)として奥平貞治と云う老将が付けられていたことから、着陣した時から東軍として働くことが秀秋の家老たちによって合意されていたと思われます。

しかし、本戦が朝霧の晴れた午前8時過ぎくらいに始まり、2時間ほど経った段階で西軍側の参戦しない軍勢が小早川、毛利勢など4万くらいおり、三成軍から参戦を促すのろしが上がりましたが、秀家はまだ動きません。

秀家が動いたのは、開戦から4時間くらい経って奮戦する西軍将兵がくたくたになり始めて来たお昼すぎだったと言われています。

一緒に様子見をしていた脇坂隊含めた4軍も寝返り、計2万近い軍勢が西軍大谷隊の側面になだれ込みました。

これで形勢は一気に東軍勝利へ傾き、西軍は夕刻までに壊滅して行きます。

この小早川軍の動かなかった理由は、

1)秀家が東軍か西軍か未だに判断が付かない優柔不断の性格のため

2)東軍への寝返りの成果を確かなものにするために、秀秋付きの家老平岡頼勝、稲葉正成らが一番効果的な介入時期を待っていたため

くらいが通説では言われています。

私の私見では、2)が有力な感じですね。

最初から東軍側として戦端を開いていたら、西軍の真っただ中にいた訳ですから、相当な被害を被った事は想像に難くないです。

しかし、少なくとも”裏切り者”の汚名はなかったのではないかと思います。

秀秋はまだ18~19歳の若者ですから、後世の見方では大軍を率いる重圧に精神的に潰され、どうしていいかわからずにいたと云うのですが、傍についている家老たちが強者で秀秋自身も慶長の役では総大将をつとめています。

戦国時代の18~19歳は若武者ながら、もう十分な大人であり経験豊富な将軍が傍に控えているのですから、どうしてよいかわからずはないだろうと思います。

秀吉から受けた恩義と養母高台院(秀吉の妻寧々)の助言、家康から受けた恩義も十分に考えて自分なりの結論は出していたと思います。

秀秋はなぜ”裏切り者”と呼ばれるようになったの?

秀吉と家康は元の主筋の継承者たちに対して尊重して敬意を払わなかったと云う点においては非常によく似ているようです。

つまり二人とも日本の伝統的な主従関係からすれば、権力の簒奪者・裏切り者と云えそうです。

運なく権力の座を追われそうな後継者たちを守り奉って、主君の一族に忠誠を尽くすと言う忠義の道には程遠いわけです。

これも”下剋上の時代”の申し子だったと考えれば当然なのかもしれません。

今の時代から見れば、屁理屈をつけて正当化したものは功労者となり、そうでないものは裏切り者と呼ばれたに過ぎないような気がします。

小早川秀秋の場合は、戦国時代にあっては後世に言われるほど悪い所業とは思われず、その後の本人がその行動の言い訳をキチンと業績で示せなかったことから言われ続けることになってしまったようです。

行動だけで見るなら、秀吉の北条攻めの折に、北条家と姻戚関係にあった家康の行動は明らかに北条家に対する裏切り行為であったことは明白です。

なぜあれを裏切りとして言われ続けないかと云えば、”家康が再三再四に亘って北条氏政に秀吉への帰順を勧めたにも拘わらず、それに応じずに秀吉と対立を推し進めて北条家が勝手に自滅した”と云う事になっているからです。

行動だけで見るなら、秀吉の北条攻めの折に、北条家と姻戚関係にあった家康の行動は明らかに北条家に対する裏切り行為であったことは明白です。

なぜあれを裏切りとして言われ続けないかと云えば、”家康が再三再四に亘って北条氏政に秀吉への帰順を勧めたにも拘わらず、それに応じずに秀吉と対立を推し進めて北条家が勝手に自滅した”と云う事になっているからです。

しかし本来、これは家康が北条氏政に帰順を勧めたのが姻戚関係重視であれば、氏政側について秀吉との同盟を破棄するのが信義に基づく筋だと思います。

ところが、家康はあっさり氏政を捨て、秀吉に協力して氏政を破滅に追い込みますが、これを後世の歴史は”家康は裏切り者”とは言いません。

秀吉にしても、主君信長の長男信忠の子三法師を織田家後継者として祭り上げますが、彼は三法師を織田家の主君に復帰させることなく、反対者の口をすべて塞ぐ形で織田家から政権を簒奪します。

しかし、これも後世の歴史は秀吉を”裏切り者”呼ばわりはしません。

なぜかと云えば、秀吉が後に短期間とは言え、天下人となり自身が首班となって豊臣政権を打ち立てたからですね。

家康も同様です。

あれで、家康が徳川幕府を成立させるのに失敗していたら、果たして後世の歴史はどんな”尊称”を彼に与えたでしょうか。

小早川秀秋が現場でのパフォーマンスに問題があるにせよ、後世”裏切り者”扱いされている最大の理由は、本人がその功績によってその口さがない世間の評価を打ち消すだけの時間がなかったことによると考えられます。

まあ、簡単に云えば欠席裁判によって評価が定着してしまったというのが原因なんだろうと考えられます。

今の歴史書で、”小早川秀秋の裏切り”と言われ続けるのは以下の理由からです。

関ケ原に入る以前の三成挙兵当初の戦いでは、西軍として行動して家康の伏見城を攻撃して落城させたりしているにも関わらず、関ケ原本戦では戦い後半まで参戦せずに傍観し、最後に東軍に寝返って西軍主力の大谷隊を卑怯にも側面から叩き、西軍壊滅へ導いた行動が裏切りとしていわれている訳です。

これに対して解説されている事は、

1)秀吉の後継者候補として寧々(高台院)に大事に育てられて来たはずが、実子秀頼の誕生により秀吉から疎まれ始め希望を失っていたこと

2)気を取り直して朝鮮出兵で頑張ったものの、それが全く評価されず叱責の対象とされ、あろう事か減封までされて衝撃を受け、秀吉に讒言した三成を恨んでいたこと

3)その減封を家康により回復して貰って家康に大きな借りがあったこと

4)養母の高台院(寧々)から東軍(家康)につくように言われていたこと

などが裏切りの動機とされています。

そして、なによりも参戦して合戦場での最もいい位置に陣取りながら、最後まで旗幟を鮮明にすることなく、状況によりどちらにでも寝返る可能性を見せていたことが、後世の人間に”汚い行為”とみられたようです。

 

小早川秀秋の裏切りがなかったら”関ケ原の戦い”で西軍は勝てたの?

ある意味東軍も、家康が集めた寄せ集め軍です。

徳川の精鋭軍団の3万6千は秀忠が遅れを取っており、この場にはいませんでした。

それから地図でみるとわかるのですが、関ケ原の戦場は本当に2キロ四方くらいの山に囲まれた狭隘な土地です。

このような逃げも隠れも出来ないところに双方合わせて激突していた軍勢だけでも6~7万人も詰めていたのです。

もし、あのタイミングで小早川軍が大谷隊ではなくて、家康の着陣している桃配山方面へ押し出して行ったら、山頂から降りて麓に着陣していた家康は袋のネズミで動きもとれず、打ち取られていた可能性はあると思います。

勿論、それを確実にするのは毛利軍が背後の南宮山を降りて、家康の退路を断つ形で呼応することが必要ですが。

やっぱり、何度、配置図を見ても素人ながら、私は西軍の勝機は十分にあったと思います。

最後西軍が総崩れで敗走するなか、三成軍のいた笹尾山の麓に陣取っていた島津義弘はなんと関ケ原合戦場の真ん中を伊勢街道へ向けて撤退・戦場離脱を敢行し、その時、家康本陣のすぐ脇を通過しているのです。

島津もあの終戦の大混乱のなか、家康だけに絞って突っ込めば、打ち取れる可能性はあったことになります。

家康側の将兵からも島津軍が一気に家康本陣を目指しているように見えたと伝えられており、さぞかし家康本陣スタッフは皆肝を冷やしたことでしょう。

本題に戻りますと、通説では家康側の調略の進み具合から、秀秋の裏切りがなくとも東軍が勝利とする説が多数です。

しかし、戦場の図を見る限り、前述のように十分に西軍に勝機があったように感じます。

勿論、条件が色々ありますから、西軍が勝利するには西軍に十分な条件が整っていることが必要ですので、当時の西軍側の連携が極めて悪かった事を考慮すると、やはりどんな戦い方をしても西軍は勝てなかったかもしれません。

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秀秋は本当に毛利家の一員だったのか?

もうすでにみなさんがご承知のように、秀秋は天正10年(1582年)に秀吉の妻寧々の兄木下家定の5男として当時の秀吉の領地長浜で生まれました。

3歳になる時に子供のいない秀吉夫妻の養子となり、以後秀吉の後継者候補として大切に育てられます。

そして文禄2年(1593年)に秀吉に実子秀頼が生まれてから運命が変わり始め、翌文禄3年(1594年)に中国方面を担当している軍師黒田官兵衛によって、毛利家と豊臣家との縁を結ぶ跡取りとして送り込まれます。

毛利家はすぐに別の継嗣を定めて、秀秋を毛利の両川(りょうせん)のひとつ小早川家での受け入れを決めました。

こんな経緯で秀秋は政略的に毛利家の重鎮小早川隆景の養子となりました。

既に秀秋は丹波亀山10万石と権の中納言を拝命しており、この養子縁組によって小早川家の家格は大きく上昇し、以後五大老のひとりとなります。

豊臣政権内での毛利家の発言力も増し、毛利輝元は東の上杉景勝と対をなす大大名となりました。

そうして、秀秋は毛利家が豊臣家の縁戚に位置する役割を担うこととなり、小早川隆景も豊臣政権内部で重視される存在ともなって、天下人秀吉から押し付けられた人物とは言え、毛利家存続のための大事な人材と位置付けられて行きます。

しかし、文禄4年(1595年)に秀吉によって引き起こされた”秀次事件”に連座する形になり領地の丹波亀山城を没収される憂き目に合い、養父小早川隆景が隠居する形でその所領筑前名島30万7千石を相続することになりました。

結局、秀吉が毛利家から丹波亀山10万石を召しあげた形となった訳です。

そうやって毛利家が独力で得た所領に秀秋が入り、より近い存在となったかですが、小早川隆景の存在がかろうじて毛利家内での秀秋の立場を守っていることに変わりはなく、秀次事件での減封問題は毛利家内で秀秋の立場を悪化させたと云えるでしょう。

そして慶長2年(1597年)6月に小早川隆景が死去してから、秀吉の毛利への攻撃か、秀秋への仕打ちか分かりませんが、出征していた朝鮮からの帰国を求められ、慶長3年(1598年)1月末に帰国した途端に、越前北ノ庄15万石への転封が命ぜられます。

毛利としては本貫の地ではないのですが、小早川隆景が得ていた所領がこのように秀秋をダシにして召しあげられて行く状況に、秀秋に怨嗟の声が集まるのは当然と云えそうです。

こうして、隆景がつないでいた秀秋と毛利家とのつながりは実質的には隆景の死去と共に切れてしまったとみてよいのではないでしょうか。

蛇足ですが、、、

毛利家内部も隆景の死去により秀秋を庇うのと同時に、小早川隆景が支持していた安国寺恵瓊の力に反発する両川の片方吉川広家の発言力が強まる事態も惹起しています。

関ケ原の戦いを巡る毛利家の迷走とも思える西日本での火事場泥棒的行為は、凡将毛利輝元の貪欲さの責任もさることながら、こうした隆景不在による統制力を欠くことから始まっており、戦後にその行状が明らかになってしまった為、秀秋の大戦功にも拘わらず毛利を取り潰す好機を見逃さぬ家康の餌食なってしまいました。

関ケ原後に秀秋はどうなったのか?

戦後の論功行賞では、宇喜多秀家の旧領岡山55万石へ加増・移封されました。

しかし、秀秋は2年後の慶長7年(1602年)21歳の若さで急死(原因は不明ながら、アルコール依存症によるとされている)しました。

当然ながら継嗣不在のため、それを理由に小早川家は徳川政権初の”継嗣不在による改易”となりました。

秀秋の早世は、関ケ原での”寝返り問題”と絡めて、裏切られた武将の恨みだとか、義にさいなまれたノイローゼによる狂死だとか色々言われますが、若年から大きな責任を背負い続けた心労から来るアルコール依存症による病死とみるのが妥当だと思います。

関ケ原の合戦のテレビドラマで見る決断に迷っておろおろする秀秋の姿は、後世、特に江戸時代の作り話に過ぎないと思います。

現代のサラリーマンからは考えられないほど、当時の武将は早熟でそれなりの”器”と”人間力”をもっているものだと私は考えています。

20歳そこそこで、補佐人が多数いたからと言って、そうそう14万人以上もの大部隊の総大将は務まりません。

20歳くらいで10万人を超す大企業のCEOを務めることのできる人物が現代の日本社会にいるでしょうか。

そう考えれば、アル中になった小早川秀秋の心情も少しは分かろうと云うものですよね。

まとめ

『関ケ原の戦い』は日本史上でも有数の大会戦であり、その後の265年にも亘る徳川政権を決定づけたものでした。

その中で、戦いの大勢を決めたのが、この小早川秀秋の”寝返り(裏切り)”であったと歴史書は教えています。

その真相はどうだったのか、実はよくわかっていないことが多くて、学校でも事件のあらましと結果と影響を教えるだけで、本当のその理由と当事者の考え方に関しては教えていません。

歴史に共通することですが、ものの価値観は時代によって変わって来ます。

つまり、今の価値観で過去の裁判をやってはならないという事が歴史を学ぶ者の鉄則なのです。

そんなことを改めて思い起こさせるのが、この”小早川秀秋”の事件です。

当時の戦(いくさ)は力攻めの戦いよりは人的損害の少ない調略戦によるものが太宗を占め始めていて、特に大戦力による戦いが増えて来た戦国後期ではその比率は非常に高くなっていたと思います。

秀吉のような政治力で戦いを進めて行く武将がだんだん勢力を強めて行く時代へ変化し始めていました。

そんな中に政権・歴史の分水嶺としてこの『関ケ原の戦い』が存在します。

しかも、その帰趨を決めた人物になったわけなので、”小早川秀秋”に注目が集まるのは当然ですね。

私はこの小早川秀秋の選択が、通説のように”人の信頼を裏切る犯罪行為”と云うような見方は、戦国時代当時の常識に反するのではないかと思います。

今NHKの大河ドラマでやっている『真田丸』の真田昌幸などは本当に裏切りの連続のような人物です。

ですから、小早川秀秋の行為は普通の当時の武将のパフォーマンスではありましたが、やはり早世したために弁明の機会もなかったことが、”ただの優柔不断な人物”にされた理由だと思います。

秀吉の妻寧々の教育が甘やかしてばかりで悪かったような話でケリをつけていますが、秀吉の謀叛の疑いを掛けられた後継者秀次もこの後継者サブの秀秋もそれなりの英才教育がなされていたと考えられます。

早世してしまったために”死人に口なし”で、いい訳も、真価と値打ちも発揮できないままいなくなったのです。

状況さえ整ったら”名君”になったかもしれません、ゆめゆめ後世の歴史家の口車に乗って、この小早川秀秋を悪く云う事は避けたいと思う次第です。

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