豊臣秀吉は長久手の戦いで家康に負けた?秀吉はなぜ天下が取れた?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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本能寺の変”の後の混乱を収めて、天下取りへ動き始めた
秀吉に立ちはだかる大きな壁は徳川家康でした。

その家康との直接決戦である『小牧長久手の戦い』に負けて
しまった秀吉が、その後なぜ”天下取り”となることが
出来たのかをトコトン解説いたします。

この『小牧長久手の戦』ってどんな戦いだったの?

天正12年(1584年)3月から始まった、秀吉対反秀吉勢力
の対決ですが、要するに秀吉対家康の戦いでした。

その争いのきっかけは、、、

本能寺の変』後の『清須会議(1582年)』で、旧織田家
の領地配分の主導は秀吉を中心とする信長配下の武将間
で行われ、織田一族は蚊帳の外に置かれました。

続いて翌年の1583年には織田一族は”安土城”から追い出
され不満は秀吉に向けられました。

急先鋒であった信長次男の信雄(のぶかつ)は、父信長が
信頼していた徳川家康と手を結び、秀吉の懐柔の手に
なびいた配下の3人の家老を処刑しました。

それに怒った秀吉が討伐を決意したと伝えられています。

しかし、戦いは秀吉、反秀吉と天下を2分し、紀州の雑賀衆・
根来衆四国の長曾我部元親北陸の佐々成政関東の北条
が家康に呼応し反秀吉包囲網が構築された広域に展開する
大戦(おおいくさ)となりました。

秀吉自身も11月の終戦までに3回も小牧の戦場を離れて
大坂へ帰還の必要性に迫られるなど、大変な事態に
追い込まれています。

本隊同志の大激戦であった局地戦長久手の戦い”は家康軍の
完勝に終わり、その後数か月に及ぶ長い膠着状態が続いて
いた11月に動きがあります。

秀吉側から総大将の信雄宛に伊賀と伊勢の半国割譲で手打ち
が持ちかけられ、なんと総大将信雄は秀吉と単独講和
結んでしまったのです。

突然のことに、反秀吉包囲網は崩壊し、家康は戦いの大義を
失って、一方的に撤退し戦争は一応の収束をみます。

しかし、、、

秀吉と家康の主導権争いはこれから続いて
いくことになります。

秀吉公立像
《画像は大坂城内 豊国(とよくに)神社太閤銅像です》

結局秀吉と家康どちらが勝ったの?

兵力的にみると、秀吉軍10万人に対して徳川軍3万人の戦い
秀吉は約3倍の兵力を要しており、普通は負けるはずの
ない数字です。

小牧界隈と云えば、元々の秀吉の本拠地に近いところで
しかも、彼の出世の手足となった川並衆(蜂須賀小六、
前野将衛門ら元野盗の頭)の本拠地です。

このあたりなら、本来は秀吉の情報網が完璧なはずで
家康軍の動きが手に取るようにわかっていて当然
なのですが、事実はほぼ情報戦に負けたような、
後手後手を踏んで行く秀吉の姿がここにあります。

緒戦の流れは、、、

秀吉から美濃を与えられて張り切る池田恒興がいきなり
犬山城を占拠することから、3月に戦端が開かれます。

家康ー小牧城、秀吉ー楽田で目と鼻の先で睨み合った
ままの膠着状態が続いたあと、秀吉軍は池田恒興の進言
と言われている家康の本拠地(岡崎城)攻撃のため、

支隊2万人が編成されて、小牧城に着陣している家康軍
を迂回する作戦が発動されて、羽柴秀次が総大将となり
いよいよ、本隊最大の戦い『長久手の戦い』
が始まります。

深夜の作戦と云う事もありますが、この近隣は当時農地
以外はほぼ雑木林の丘陵地で、軍どうしの連携が取り
にくいところです。

秀次軍の動きはすべて、家康に従う伊賀衆の情報網
捕捉されて筒抜けでした。

秀次軍は細長く四隊に編成されており、一番遅れて
尾張旭白山林で休息中の秀次隊8000名は後ろから
襲い掛かって来た徳川先発隊に壊滅させられます。

徳川軍の攻撃を秀次隊壊滅の2時間後に気がつき、応援
に向かった堀秀政が徳川先発隊を叩きます。

そしてそれを追撃していると、今度は徳川本隊が現れ
堀隊は、先発して岩崎城を落としていた第一隊池田
恒興隊と第二隊森長可隊の間を分断されます。

その後敵襲の知らせに引き返して来た第一、第二隊は
待ち受けていた徳川本隊に壊滅させられ、ここに
長久手の戦いは徳川勢の大勝利に終わりました。

火急の報に駆け付けた秀吉本隊2万は、間に合わず家康が
小牧城に帰陣したあとの到着になりました。

この経過を見ても、ほぼ2倍の兵力に緊張感が欠けていた
のか、完全なる情報戦の負けであることは明白です。

家康軍は伊賀服部半蔵指揮の乱波たちに的確な情報を
提供を受け、作戦行動に全くの無駄がないことが、
勝敗に大きく影響しました。

若い頃は川並衆の情報力で相手を調略し続けて来た
秀吉としては、さぞ悔しかったことと思います。

指揮官の無謀な作戦と云うより、情報収集と分析力で
完全に負けた・・・20世紀のどこかの国の軍隊の
ようですね。

実戦はそんな具合でしたが、圧倒的な兵力を保有する
秀吉軍はこれしきの敗戦では敗退せず、この長大なる
戦いである『小牧長久手の戦い』は、再び小牧地区
で膠着状態に陥ります。

戦いでは、一応の勝利をおさめた家康ですが、、、

ここから秀吉の政治家としての実力が発揮されます。

11月に入って織田・徳川軍の総大将織田信雄に秀吉から、
伊賀と伊勢の半国割譲で手打ちが持ちかけられ、
なんと総大将信雄は秀吉と単独講和を
結んでしまったのです。

秀吉はこの包囲網の”扇の要”がどこにあるか
良く知っていたようで、そこを正確に
射抜きました。

あっと云う間に秀吉包囲網は崩壊しました。

結果、戦術的には徳川家康の勝ちで、戦略的には
豊臣秀吉の勝ちとなりました。

結局この戦いは、、、

秀吉が天下統一へ一歩進めたのですから、
これは引き分けではなくて、秀吉の勝ち
と見るのが妥当だと思います。

家康の思惑はどんなもの?

ここで家康の性格に触れておかねばなりません。

考えてみると不思議な人です。

信長とか秀吉のような天才的なところはあまり
見当たらないんですね。

しかし、愚直の人と云うのか、我慢強い人と云うのか
もの凄い長期スパンで思いを実現する力が
あったという事です。

地道に物事を積み上げて行く、こんな人確かにいますね。

しかし、多くはその努力が実らずに終わってしまう
のですが、この人物は違いました。

よく聞く話に『ホトトギス』のことがあります。

ご存じの方も多いでしょうけど、、、

信長:鳴かぬなら殺してしまえ不如帰(ホトトギス)

秀吉:鳴かぬなら鳴かせてみよう不如帰(ホトトギス)

家康:鳴かぬなら鳴くまで待とう不如帰(ホトトギス)

この話は、私の出身地愛知県では小学生のころから
聞かされます。

江戸時代の『武士の規範』みたいな態度です。

これを作ったのが、家康の性格のなのでしょう。

これをベースに家康の当時の思惑を考えてみましょう。

この戦いの直前の状況は:

通説では、”本能寺の変”が起こって、堺で見物をして
いた家康は、伊賀越えで帰国する方法を決断し、

命からがら三河へ逃げ帰り、光秀討伐軍を
編成するのに手間取り、結局山崎の合戦
には間に合わなかった。

そして、織田政権の崩壊とともに、旧武田領での一揆
上杉、北条の動きもあり、その対応に忙殺されて行く
ことになった。

とあります。

結果からみると、この『本能寺の変』に絡んで、家康は
旧武田領を織田家よりからめ取り、甲斐・信濃・駿河・
遠江・三河の5か国(約130万石)を領有する
大大名へと成り上がっています。

運がいいのでしょうか?

偶然こんなことが起こるでしょうか?

近年、日本でも流行の『成功哲学』系のセミナーで
何度も聞く言葉に、”思っていることは実現する”
”そしてやってみなければ成功しない”ってのが
ありますが、繰り返し言っているのは、偶然には
物事は起こらないし、成功もしないという事です。

これは至言ですね。

あの『本能寺の変』が起こった時、即動き出した
人物が当人の明智光秀以外にふたりいます。

ひとりは言わずと知れた羽柴秀吉で、もうひとりが
この徳川家康です。

なぜって?

それは、”準備していたから”としか考えられ
ませんよね。

他の武将は抱えている事情は色々あったにせよ、
そもそも情報を得るまでに時間を要していますし、
動きが緩慢ですね。

こうして見ると、従前の実直なだけの家康から
違う姿が出て来そうです。

やはり、家康も戦国武将ですから自国領の拡大を
当然図るわけで、それが最大の目標で有り続ける
と思います。

こんなしっかり者の家康を前提にすると、この
小牧長久手の戦いの時の『家康の思惑』は、
秀吉に簡単に踏みつぶせない力を見せつけた上で、

北条と組んで東日本に秀吉への対抗勢力を作って
秀吉と共存すること、上手く行けば天下二分
くらいを考えていたのではないかと思います。

まぁ、本能寺の時もそうですが、今回も秀吉に
してやられた感じがしますね。

それで次善の策として、秀吉の妥協案に乗って
みたんじゃないでしょうか。

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秀吉はなぜ家康をとことん叩かなかったのか?

 

家康は野戦が得意であり、秀吉は城攻めが得意
い言われています。

この戦いは、家康が小牧の城に籠り、秀吉が楽田城と
云う陣屋のような砦に陣取り不思議な感じでしたが、

案の定、野戦の長久手の戦いに家康に大敗します。
やはり本格野戦では家康の方が巧者なのです。

堅城とは言え、小牧城は小規模な城です。

秀吉が本気を出せば、犠牲はかなり出るでしょうが、
勝利する可能性は高いのではと思います。

ここに家康方重臣に石川数正と云う人物がいます。

本能寺以降に対秀吉交渉担当と云った役割で、合戦
のプロフェッショナル、今で言う参謀長のような
人物です。

この人物がこの翌年1585年に”出奔”と言っていますが、
ようするに秀吉サイドに寝返っています
これはかなり臭いませんか?

秀吉はもうすでに家康のフトコロ深く調略をすすめて
いた事がうかがわれます。

とにかく”人たらしの秀吉”です。

一方、秀吉側の見方として、徳川は北条と同盟関係にもあり、
この当時、家康130万石、北条250万石でしたから、家康の
背後いる北条まで考えた場合は、かなりの大仕事となり、
やり終えたとしても相当の体力を消耗し、ひょっとしたら
命取りになりかねない可能性があります。

また、、、

家康と上手く講和同盟し、臣従させることが出来れば
その北条の取り込みも可能性が大きい訳です。

そう考えると、、、

秀吉の攻勢の絶好のタイミングは、11月12日に信雄と
単独講和が成立したあと、家康は11月17日に小牧の
陣払いをして岡崎へ引き上げています。

この引き揚げ(退き陣)は追撃の絶好のチャンスである
ことは戦術の常識です。

ここで史実は『家康は戦いの大義を失ったため突然
軍を引いて三河に引きこもってしまった』と云います。

正面に誰もいなかった訳ではなく、秀吉軍3万が
対峙していたわけですから、上記のようなことは
あり得ないのです。

また、後日秀吉から講和の使者が行った際にも
あっさり次男を人質に出すことで講和を成立
させています。

つまり、秀吉と家康が出陣までして、長久手の戦い
で槍を交えて敗退した段階で、秀吉はもう石川数正
を重用して講和を考え、その後の家康の使い道を
計算していたと考えます。

どう計算しても、家康を生かした方が自分の利益が
大きいとの秀吉の判断ですね。

だから、堂々と家康は後ろ姿を見せながら小牧から
三河へ撤収して行ったのだと思います。

もう講和の段どりまでついていたのではない
でしょうか。

と云うような見方から、”秀吉が家康をとことん叩く”
はなかったと結論付けます。

秀吉はどうやって家康を臣従させたの?

秀吉が小牧長久手の戦いの講和を成立させたのは、
ふたつ説があり、1584年に家康が次男・於義丸
(結城秀康)を人質に出した時と、もうひとつ
は、1586年に大坂城へ出向き臣従した時です。

講和と云うのは、ある意味停戦のしっかりした
ものなので、人質を出した1584年だと考えて
いいのではないでしょうか。

秀吉は信長にとことん仕えた家康の律儀さを
自分に向けさせることが出来れば、十分使える

人材になるとの判断と、有力大名としての家康
を味方に出来るメリットを大きく感じており、
何としてでも臣従させねばならないと思って
いたのです。

もう、天下人にならんとしている人物とは思え
ないほどなりふり構わずの体であり、

先ず、、、

自分の妹旭姫を離婚させて、家康の嫁に差し
出しました。

それでも上洛の気配を見せない家康に対して
今度は”実母のなか”まで差し出しました。

岡崎城への秀吉実母の到着を確認して、そろそろ
交渉も決着の頃合いと判断した家康は、秀吉の
待つ大坂城へ出仕することを決めました。

秀吉は家康を臣従させるために、妹と母を人質に
出すと言う驚くべき奇策に出ました。

NHK大河でも母親の”なか”が家康に人質として
出る時、秀吉に向かって『母親より天下が大事か』
と問い詰めた時、即座に『そうだ!』と
言い切るところに秀吉の必死さが
表現されていました。

果たして、そこまでして上洛させた家康は並みいる
諸将の前で、見事秀吉の期待に応えたパフォーマンス
を成し遂げ、これにて東の北条、伊達を除く諸将
を平定することに成功しました。

家康は北条とは姻戚関係を結んでいたため、秀吉は
そのことも期待していて、家康を臣従させれば北条
氏政も従うとの期待感が大きかったのではないか
と思います。

もうこの時点で天下統一が完了したような達成感を
味わいながら、家康が諸将の前でひれ伏している
のを見下ろしていたものと考えます。

まとめ

この二人、豊臣秀吉徳川家康は、片や織田信長の
腹心の部下で、片や義兄弟と言ってもいいほどの
盟友と言われています。

そのふたりが初めて正面から激突した(実際は本人
たちは戦場で会わずにすれ違った)戦いがこの
小牧・長久手の戦い』でした。

結果、手合わせをしてみたものの、”殺し合う間柄”
ではなくて、”利用し合う間柄”だと確認し合った
ような結果となりました。

時に秀吉47歳、家康41歳でお互い信長の元で実戦経験
豊富な戦国大名でした。

また、お互い、筋肉系の偉丈夫ではなく、戦略家・
政治家として認めざるを得ない畏友です。

このあと、二人は歴史をひた走り、ふたりとも歴史に
名を残す『天下人』に登りつめることになります。

この戦いは、ただの地域戦で歴史上も小さな扱いに
終始していますが、歴史を変える大事な転換点
なった”関ケ原の戦い”と並ぶ重要な戦いで
あったと思います。

理由は、殺し合いをしなかったことにより、秀吉の
天下取りが決まり、家康の天下取りの可能性が
大きくなったからです。

最近本能寺を巡り説得力のある異説(明智憲三郎氏)
が出て来ています。

秀吉の行動の合理性が今ひとつ説明出来てないので
すが、家康のことは物証もかなりあり、合理的な
説明がなされているので、近い将来歴史の教科書
にはっきり書かれる日もくるかもしれません。

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