織田信長の『茶の湯』は”名物狩り”と”茶の湯政道”だけなの?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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戦国の覇王織田信長と『茶の湯』の関わりが分かります。

 

織田信長の『名物あさり』・『茶道具狂い』の実態が分かります。

 

織田信長が発展させた『茶の湯』が、信長を滅ぼしたのかも?

 

徳川家康も豊臣秀吉に劣らず『茶の湯』が好きでした?

信長の創り出した『茶の湯』とはなに?

『茶の湯』の始まり

茶の湯』の始まりとしては、日本では奈良時代に中国から入って来ていた”喫茶”の習慣を禅宗の僧侶が、””を広める手立てとして鎌倉期に復活させたものです。

 

最初は、”茶”は薬として使われていたようで、鎌倉時代に成立した歴史書『吾妻鏡(あづまかがみ)』によると、、、

 

四日。己亥。晴。將軍聊御病腦。諸人奔走。但無殊御事。是若去夜御淵醉餘氣歟。爰葉上僧正候御加持之處。聞此事。稱良薬。自本寺。召進茶一盞。而相副一巻書。令献之。所譽茶徳之書也。將軍家及御感悦云云。
(引用:吾妻鏡<第4 正宗敦夫編 日本古典全集刊行会 1930> 巻十九 224頁 建保二年二月四日の条 国立国会図書館デジタルコレクション

 

と、あり、、、

 

建保2年(1215年)2月、鎌倉幕府将軍源実朝(みなもと さねとも)が前夜の深酒で気分が悪い折、医師の僧正(栄西禅師)が呼ばれ、良薬として寺よりお茶を持参した盃一杯のお茶を差し上げ、お茶の効用を書いた書物も合わせて献上したところ、将軍が大変喜ばれたとあります。

 

この時の僧正が、中国留学より帰国した建仁寺の栄西(ようさい)禅師であり、献上した書物は、承元5年(1211年)に著述した”喫茶養生記(きっさようじょうき)”であったと言われています。

 

栄西に師事した弟子で曹洞宗の祖道元(どうげん)禅師が、禅宗の厳しい戒律を守っての修行の中で、禅門の食事に関することを説いた”典座教訓(てんぞきょうくん)”を作り、その中で禅と茶の知識を広めたとされています。

 

このように、復活した初期の”喫茶”は、禅宗の寺院の修行の一環として広まって行ったものでした。

 

そして、室町時代に入った15世紀後半に有名な一休(いっきゅう)禅師に師事した村田珠光(むらた じゅこう)が『茶の湯』を創設し、八代将軍足利義政(あしかが よしまさ)に『茶の湯』を教えたと言われています。

 

この義政が幕府同朋衆の能阿弥(のうあみ)に命じて『茶礼』を制定させて”東山流”が出来ました。

 

この系列に堺の茶人北向道陳(きたむき どうちん)がおり、その弟子に千宗易(せんのそうえきー千利休)がいましたが、珠光流の禅法を主体に置いた茶道となっています。

織田信長の『茶の湯』

織田信長は幼少期より、父織田信秀に英才教育を施されて、武芸や戦略の研鑽に余念なく、元服してからは実戦の合戦に明け暮れる毎日で、文化面に無縁の武辺の人物と思われがちです。

 

しかし、父織田信秀と、傅役平手政秀(ひらて まさひで)は、尾張地区では文化人として知られており、、、

 

廿日、辛酉、天晴、夜入雨下、〇今朝朝飯平手中務丞所有之、各罷向候了、三人なから太刀遣候了、種々造作驚目候了、數寄之屋敷一段也、盞出、八過時分迄酒候了、音曲有之、中務次男七歳、太鼓打候、・・・、
廿三日、甲子、天晴、〇今日三郎亭にて、和歌會有之、・・・
(引用:『言継卿記 天文二年七月廿日、廿三日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

天文2年(1533年)7月に織田信秀に請われて、公家で蹴鞠の宗家である飛鳥井雅綱(あすかい まさつな)卿が蹴鞠の指導に、京都より尾張の勝幡城を訪れた時のようすが、記述されていますが、家老の平手政秀の屋敷があまりにも立派な数寄造りであって、公家の飛鳥井卿と同行した記述者の山科言継(やましな ときつぐ)卿が驚いているようすが分かります。

 

数日後に信長の父織田信秀邸で和歌の会が催されたことも記載されており、家老の平手政秀が地元の茶人として、有名であったことと、信秀も和歌の会を催すなど、文化人として京の公家衆と対等に付き合っている様子も分かります。

 

この頃には、京都辺りでも『茶会』が広く行われており、公家・上級武家を中心に広がっていました。そして、尾張にても既に茶人としても有名な平手政秀は、名のある茶道具をいくつか所有しており、父の信秀も同様だったようです。

 

織田信長はこんな文化的な環境で育って来ていますので、既に父の薫陶を受けていて、彼が決して武辺一辺倒の武将でなかったと考えて、間違いないところでしょう。下賤の出自である豊臣秀吉とは育った環境が大きく違っていたのです。

 

信長も既に茶会を開いていたと思われますが、記録に残る”織田信長の茶会”は、かなり遅く、足利義昭を奉戴して上洛してから3年後の、元亀2年(1571年)12月に岐阜城で行われたと『言継卿記』に記載がやっと出て来ます。

 

廿九日、丁巳、天晴、土用、八事、〇村井民部少輔、霜臺へ罷出之由申立寄見舞、細兵、明智等被呼之、茶湯有之云々、・・・
(引用:『言継卿記 元亀二年十二月二十九日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

公用で岐阜に来ていた山科言繼卿が、霜台(織田信長)のところに顔を出したら、細川藤孝明智光秀も呼んで岐阜城山麓の数寄家で『茶会』を開いてくれたものと思われます。

 

さて、『信長の”茶の湯”』ですが、最初の師匠はおそらく織田家家老で信長の傅役であった平手政秀だろうと思われます。平手政秀の娘聟となる、信長の弟織田有楽斎のことは有名ですが、信長の師匠もおそらく政秀でしょう

 

一般的に、『織田信長の”茶の湯”』と言えば、『茶道具の名物あさり』と『御茶湯御政道(おんちゃゆ ごせいどう)』が有名です。

 

前述の記録に最初に出た”信長の茶会”も、信長による最初の”名物狩り”のあとで行われています。

 

然るに、信長、金銀・米銭御不足なきの間、此の上は、唐物天下の名物召し置かるべきの由、御諚候て、先、
上京大文字屋所持の、一、初花。祐乗坊の 一、ふじなすび。法王寺の 一、竹さしやく。池上如慶が 一、かぶらなし。佐野 一、雁の絵。江村 一、もゝそこ。以上。
(引用:『信長公記 永禄十二年 名物召しおかヽるるの事の条』インターネット公開版

 

さる程に、天下に隠れたき名物、堺に在り候道具の事
天王寺屋宗及、 一、菓子の絵。薬師院 一、小松島。油屋常祐 一、柑子口。松永弾正 一、鐘の絵。・・・
(引用:『信長公記 元亀元年 名物召しおかヽるるの事の条』インターネット公開版

 

と、信長は茶道具に関わる”名物狩り”を実行していました

 

また、信長の場合、そんな面ばかりが強調されますが、『茶の湯』の基礎は、傅役の茶人平手政秀の手ほどきをきちんと受けていたと考えられます。

 

しかし、信長は茶席に用いる道具、そこを飾るその名物名品の文化財的価値に目をつけ、従来の”禅”の枠にとらわれることなく、これを財宝として扱ってゆく”茶の湯”を創造していきます

 

上洛以降、信長の茶会の茶頭たちは、皆、堺の豪商達でしたから、信長の意図するところは直ちに理解されてゆき、たちまち道元流の”茶礼”に則って禅堂で行われるような平手流(珠光流)の精神性の高い『茶の湯』は大きく変わったものとなって行ったようです。

 

つまり、信長の名物狩り(道具あさり・名物狂い)は、茶席で”茶礼を重んじる道元流の禅宗的精神性”を吹っ飛ばしてしまい、茶席で鑑賞し使用する”茶道具”は貨幣的な価値を生む”文化財”へと変化して行きます

 

そのために、茶席は、”名物・名品の鑑賞会”へと変わって行き、”名物名品の茶道具”は財産的価値の高いものへのなって行きます。

 

身分の高い人々の禅宗の戒律に基づく茶礼での精神修養の場としての”茶席”が、俗世的な財産の取引の場へと変わり、茶道具”が政治的な利用価値を生んで行きます。

 

信長は、積極的にそれを使い、後年豊臣秀吉によって、それは”信長の『御茶湯御政道』”などと呼ばれるようにもなって行きます。

 

要するに、合戦に参加する武将たちの論功行賞として与えられるはずの”領地・権益”は、信長ほど合戦を頻繁に行う戦国大名では常に存在するわけではなく、品切れ状態だったのです。

 

その代りの対象として、”茶道具・名物”などは、織田信長にとって最適の物だった訳です。

 

何かつまらない話のように聞こえますが、当時の領主にとってこれは大変な問題で、これを怠ったり、やり方を間違えると、いとも簡単に功臣たちが寝返ってゆくのが戦国時代の常と云うものでした。


(画像引用:茶室ACPhoto)

信長が茶道具の名物あさりをし始めたのはなぜ?

織田信長が、美的センスが天才的で、その歴史的な文化財保護事業に蒐集家(名品コレクター)として人生を賭けていたと言う訳ではありません・笑。

 

前述しましたように、織田信長は『茶の湯』を通じて、そこに使用される”茶席の道具・美術品”などの、財産的価値を高めることによって、貨幣的価値を生ませ、政治交渉・論功行賞・褒賞に使おうとしていたと考えられます。

 

それが証拠に、織田信長の持つ名品・名物類はどんどん配下の大名・武将たち・貴族たちへ下賜され、配下の支配手段として使われて行きます

 

これらを、昔の通り土地や金銀などで支払っていたら、たちまち織田家の金蔵は窮乏し、土地はどんどんなくなって行った事でしょう。

 

また、娘や息子を与えて親戚化することにも限界がありますし、豊臣秀吉などは、それでも足らず大陸へ新領地獲得に出掛けたようですが、それくらい新興の大名は部下を手なずける事に腐心していたわけです。

 

 

当時の様子に関して、宣教師のルイスフロイスは、、、

 

茶を熱い水で飲む時に用いる茶の湯の道具は、日本では、彼らの許における宝石のような価格、価値、貴重さを有し、・・・それによって彼らの家は著名となり、これを所有していることで、その所蔵者は冨みかつ幸福であると言われるのである。彼らはそれらのある物は贈物として与えられ、ある物は多額の金銀で購入した。・・・
(引用:『完訳フロイス日本史2』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫123~124頁)

 

当時の外人の目から見ても、一部の好事家が収集していただけの”茶の湯道具の名物”は、現代と同じような文化財としての”宝物”と化していたことが分かります。

 

信長が買いあさり、市中から現物が少なくなることによってどんどん値が上がっていたことがよく分かります。

 

つまり信長の”偏狭的な名物あさり”と言われる行為は、只の蒐集癖ではなくて、値を釣り上げる意味もある”買占め”であったようです。

 

延いては、信長の組織維持拡大対策の一環であったとも言えそうです。

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信長の集めた名物はどんなもの?

永禄12年(1569年)の”名物狩り”したもの
  1. 大文字屋    初花    (初花肩衝茶入)
  2. 祐乗坊     ふじなすび (富士茄子茶入)
  3. 法王寺     竹さしやく (竹茶杓)
  4. 池上如庵    かぶらなし (蕪無花入)
  5. 佐野承左    雁の絵   (玉澗筆”平沙落雁図”)
  6. 江村栄紀    もゝそこ  (桃底花入)
元亀元年(1570年)の”名物狩り”したもの
  1. 天王寺屋宗及  菓子の絵  (菓子絵)
  2. 薬師院     小松島   (小松島茶壷)
  3. 油屋常祐    柑子口   (柑子口花入)
  4. 松永弾正    鐘の絵   (牧谿筆”煙寺晩鐘”の絵)
その他献上・召し上げ品
  1. 松永弾正     つくもなすび (付藻茄子茶入)
  2. 今井宗久     松島     (松島茶壷)
  3. 片岡鵜右衛門   香炉     (珠光香炉)
天正3年(1575年)10月28日の妙覚寺茶会の『信長公記』記事

十月二十八日、京・堺の数寄仕り候者、十七人召し寄せられ、妙光寺御茶下され候。
御座敷の飾、一、御床に晩鐘、三日月の御壺、一、違い棚に置物。七つ台に白天目。内赤の盆につくもがみ。一、下には合子しめきり置かれ、おとごせの御釜。一、松島の御壺の御茶、一、茶道は宗易。各生前の思ひ出、忝き題目なり。
(引用:『信長公記 巻八 御茶の湯の事』インターネット公開版

 

とあり、京での信長茶会の様子です

  1. 御床に晩鐘、三日月の御壺、
  2. 違棚に置物、七台に白天目。内赤の盆につくもがみ。
  3. 下には合子しめきり置かれ、おとごせの御釜。
  4. 松島の御壺の御茶。

となります。

晩鐘の絵、三日月茶壷、白天目茶碗、つくもがみ茶入、乙御前の釜と名物が行列し、信長が『名物狩り』したものも活躍していることが分かります。

天正6年(1578年)1月1日の朝、安土城年頭の茶会の『信長公記』の記事

正月朔日、五畿内、泉州、越州、尾、濃、江、勢州、隣国の面々等、在安土にて各御出仕、御礼これあり。

先ず、朝の御茶、十二人に下さる。御座敷、右勝手六畳布、四尺縁。
御人数の事、中将信忠卿、二位法印、林佐渡守、滝川左近、永岡兵部大輔、惟任日向守、荒木摂津守、長谷川与次、羽柴筑前、惟任五郎左衛門、市橋九郎右衛門、長谷川宗仁、以上。
御飾りの次第。御床に岸の御絵。東に松島、西に三日月。四方盆、万歳大海。水さし、かへり花。周光茶碗。囲爐裏に御釜うば口、くさりにて。花入筒なり。御茶道、宮内御法印。
(引用:『信長公記 巻十一 御茶の湯の事』インターネット公開版

 

とあり、安土城での正月の茶会の様子です

 

  1. 御床に岸の御絵。
  2. 東に松島、西に三日月。
  3. 四方盆、万歳大海。
  4. 水さしはへり花。
  5. 周光茶碗。
  6. 御釜うば口
  7. 花入筒。

京都での茶会と同じように茶室に名品・名物をずらりと並べています

床は、南宋の画僧玉澗の”岸の御絵”、松島・三日月の葉茶壷、大和の国衆万歳氏の大ぶりな茶入”万歳大海(まんぜいたいかい)”、三好実休から天王寺屋を経た”帰花の水指(かえりはなのみずさし)”、珠光(じゅこう)青磁の茶碗など名品とされる姥口釜(うばくちがま)などです。

その他『刀剣類』がありますが、下記関連記事がありますのでご参照ください。

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信長の茶頭とは?

知られている織田信長の茶頭(茶道・茶堂)は、今井宗久(いまい そうきゅう)津田宗及(つだ そうぎゅう)千宗易(せん そうえきー利休)で、あとは、信長の秘書役ですが松井有閑(まつい ゆうかん)武井夕庵(たけい せきあん)なども務めます。

 

元亀2年(1571年)12月29日の岐阜城での、京都の公家山科言継卿の饗応のための茶会は、当日の側用人の松井有閑が世話に回っていることから、茶頭は松井有閑が行ったのではないかと思われます。

 

天正3年(1575年)10月28日の京都妙覚寺での”茶会”の茶頭は、千宗易(利休)が務め、天正6年(1578年)安土城年頭の茶会では、宮内法印こと松井有閑が茶頭を務めています。どちらも堺の豪商上がりの茶人です。

 

信長の茶頭は、信長の主宰する”茶会”の総合プロデューサーとなり、その”飾り”となる”天下の名器”を揃えるのも彼らの重要な仕事となっていたようですが、どうも豪商仲間の茶人たちは、連係プレーで”天下の名物”探しに心血を注いでいたように思われます。

 

そして、彼らにとって”名物探し”はすべて、織田信長に対する”投資”だったと思われます。その流れは、信長没後も秀吉・家康の『貿易(御朱印船貿易)』への利権とも相まって繋がって行くことになります。

 

秀吉の語った『御茶湯御政道』と言うのは、『茶の湯』が鎌倉期の禅堂で始まった『茶の湯』が、その精神性とは別の政治的なものとして、広まって使われて行ったことを示したもので、その茶堂とはそのすべてを知った上で、人選も含めておこなう政治的な『フィクサー』ともなって行った訳です。

 

それに加えて利休の作った”茶室”は、政治的な密談をするにはもってこいの場所(密室)だったことも、それに拍車を掛けて行ったものだと考えられます。

 

信長の盟友であった家康が『茶の湯』に関心がなかったのはなぜ?

”茶道具狂い”の織田信長、”黄金茶室”の豊臣秀吉に較べて、人の気を引くキャッチフレーズとなるコピーがないので、”家康の茶の湯”は目立ちませんが、当然徳川家康に関心がなかった訳はありません

 

記録としては、『当代記』に、、、

 

十月二日、於駿府大御所之於數寄有茶會、客は織田有樂入道、藤堂和泉守、西尾豊後等也、昨日可有此會處、雨故及今日、・・・
(引用:『當代記 巻五 百五十六頁 十月二日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、、、

 

『関ケ原の戦い』から9年後の慶長14年(1609年)9月に、『本能寺の変』を生き抜いた織田信長実弟の織田有楽斎(おだ うらくさいー長益)が徳川家康の駿府城に参内したところ、10月2日に駿府の数寄屋で行われる藤堂高虎(とうどう たかとら)、西尾光教(にしお みつのり)との茶会に呼ばれ相伴したものです。

 

家康も”茶の湯”を好み、千利休(せん りきゅう)、古田織部(ふるた おりべ)、千宗旦(せん そうたん)らの茶会にもしばしば参加しており、茶道具も名物を数多く収集していたことが知られています。

 

家康の茶は、形式にとらわれない気楽さがあるとされています。誰でも気楽に相伴できたようです。

 

織田有楽斎は、このあと5年後の慶長19年(1614年)に、『大坂冬の陣』へ真田信繁(さなだ のぶしげー幸村)らとともに豊臣方として大坂城に入城して参戦し、歴史の陰に隠れていますが、実は歴史的に決定的な役割を果たします

 

もう、この頃から家康への歴史の流れを読み取り、件の茶室の中で家康と誼(よしみ)を通じていたのではないでしょうか。

 

ですから、”狸オヤジ”と言われ”権謀術数(けんぼうじゅっすう)・深謀遠慮(しんぼうえんりょ)の人である徳川家康”にとって、”『茶の湯』の密室”は一番似つかわしいもの、向いている得意の”アイテム”だったのかもしれませんね。

 

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まとめ

『茶の湯』は、禅の修行の一環として誕生し、室町時代になって足利将軍家から上級武士・公家・豪商を中心に広がりをみせ、政治的な接待手段として成長を始めました。

 

そこへ、政治的天才織田信長の登場します。

 

幼少時より聡明な彼は、『茶の湯』をただの接待手段に終わらせずに、『茶道具』と言う”文化財アイテム”を育て上げ、『名物・名器』に貨幣的財産価値を付加することに成功します

 

信長は、これをフルに利用し、接待だけでなく”人心掌握の政治的手段”として活用します。

 

ここに、”茶頭”と呼ばれる”茶席イベントの総合プロデューサー”が出現し、江戸時代の”側用人(そばようにん)”のような役割を果たしていきます

 

信長時代の場合は、織田政府の中で”吏僚(りりょう)”と呼ばれる官僚が出現しますが、その筆頭のような『祐筆(ゆうひつ)』と呼ばれる人たちが、この”茶頭”を務め、その内豪商出身の”茶人”たちが入って来ます。

 

当時、大身の戦国大名は必ず側近に豪商が政商・政治顧問として付いており(例えば、徳川家康の茶屋四郎次郎など)、彼らが実質織田政府の陰の首脳として、主君信長の政治(軍事)行動を支えていたと考えられます。

 

織田信長の場合、尾張からのし上がった商人はあまり目立たず、もっぱら京・堺の豪商を重用していたようです。(そう言えば、家康の茶屋四郎次郎も一応は京商人ですね。)

 

この時、信長に重用され始めた堺の豪商千宗易(りきゅう)が、信長没後の豊臣政権を陰で支えて行き、その利休が流行らせた”茶の湯”が、徳川家康の”密室政治”を育んで行ったのは面白い話ですね。

 

京都に町場の話として、『本能寺の変』の黒幕話になると、かならず”そりゃ、商人ですやろ。”と言われているのは、利休らの事を指しているのか・・・叛乱実行者明智光秀、それを裏切った細川藤孝、その行動を読んでいた豊臣秀吉、など共通につながる人物(フィクサー)は、彼ら豪商たちであったことは間違いないからでしょうか・・・

 

これだけ広範囲にわたる仕掛けが出来る階層の人たちは限られるので、『京わらべの噂話』は、ひょっとするといいところを突いているのかもしれませんね

 

こうして、織田信長は、『茶の湯』を利用して歴史の舞台へのし上がり、『茶の湯』によって滅びたのかもしれません。

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参考文献

〇有馬頼底 『禅と茶の湯』(1999年 春秋社)

吾妻鏡<第4 正宗敦夫編 日本古典全集刊行会 1930> 巻十九 224頁 建保二年二月四日の条 国立国会図書館デジタルコレクション

『言継卿記 天文二年七月廿日、廿三日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

〇江口浩三 『茶人織田信長』(2010年 PHP研究所)

『言継卿記 元亀二年十二月廿九日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

信長公記 永禄十二年 名物召しおかるゝの事の条』インターネット公開版

『信長公記 元亀元年 名物召しおかるゝの事の条』インターネット公開版

〇山折哲雄 『蓮如と信長』(2002年 PHP文庫)

〇松田毅一・川崎桃太訳 『完訳フロイス日本史2』(2015年 中公文庫)

〇坂口筑母 『茶人織田有楽斎の生涯』(1982年 文献出版)

『當代記 巻五 百五十六頁 十月二日の条』国立国会図書館デジタルコレクション

〇八尾嘉男 『茶の湯人物案内』(2013年 淡交社)

 

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