織田信長は、正親町天皇と譲位を巡って対立していた!ホント?

勤皇家と見られている織田信長正親町天皇との対立していた理由をお教えします。

 

戦国の覇王織田信長は本当に天皇を越える存在を目指していた?

 

戦国の稀代の陰謀家正親町天皇の正体を明らかにします。

 

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織田信長が正親町天皇に誠仁親王への譲位を求めたのはなぜなの?

歴史の中で、『延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)』と言うのがあります。

 

これは、平安中期(10世紀)の第60代醍醐(だいご)天皇・第62代村上(むらかみ)天皇の治世を言います。

 

つまり、この時代は天皇親政が行われ、王朝政治・王朝文化の最盛期となった理想の時代と言われ、11世紀には貴族社会に広く浸透していた考え方でした。

 

中世史研究者の小林正信氏によると、、、

 

この16世紀中葉に現れた正親町(おおぎまち)天皇とその取り巻きは、『延喜・天暦の治に帰れ』を合言葉に『天皇が親政を行う王政復古(おうせいふっこ)』を目指していたようです。

 

と言うのも、室町中期以降に戦国期に入りして以来、社会の混乱が続き朝廷を含む貴族社会は、勃興する戦国小大名・豪族たちに所領を略奪されて収入の道を閉ざされて貧困に喘ぎ、なんと天皇の葬儀ひとつまともに出せず、ご遺体が数か月御所に放置されていたなどの異常事態が出現しているほどでした。

 

そうした環境の中で育った正親町帝は、なんとしてでも”天皇親政”を行って武家に簒奪されている政治の実権を取り戻す『王政復古』を達成して、”国の実権者としての立場を取り戻す”ことに執念を燃やしていました。

 

 

通説では、、、

 

事あるごとに朝廷周辺に気を配る信長と朝廷・公家衆との関係は概ね良好で、この信長からの天皇位譲位の申し入れに対して、譲位の儀式も出来ぬほど困窮していた朝廷は、大喜びであったなどと伝わっています。

 

 

織田信長研究家の谷口克広氏によると、、、

 

信長と朝廷は多少の行き違いはあったにしろ、概ね融和関係・もたれ合いの関係だったと言います。

 

しかし、信長には朝廷(天皇)を奉戴しようと言う姿勢はなく、利用しようとしていて、実際上手く使っていたと評しています。

 

正親町天皇と仲が悪かったと言う説もあるが、その確たる証拠はないと言います。

 

 

織豊期の研究家神田裕理氏によると、、、

 

信長は、朝廷の経済基盤を支えており、いわば外護者(げごしゃ)的存在だと言います。

 

朝廷は、信長の武家のトップとしての地位を保証し、信長は政治・秩序の保障者として、お互い補完関係にあったと評しています。

 

小林氏以外は、大体通説に沿った意見のようですが、あまり”譲位を求めた深刻な理由”には触れてないようです。

 

 

そこで、元に戻りますと、、、

 

一方の織田信長は、弱体化している”室町幕府”の中興を計り、将軍の権威で武家による政治の独占体制の強化、つまり武士階級を結集した国家体制の実現を目指していたと考えられます。

 

簡単に云えば、織田信長が譲位要求をし始めた理由は、王政復古して失った政権の失地回復を図ろうと、事あるごとに武家政治に関する越権行為を行おうとする、しつこい正親町帝の影響力排除の為だったと思われます。

 

後釜は、信長が手なずけた正親町帝の子息である誠仁親王(さねひとしんのう)を次期天皇に起てるつもりでした。

 

実は、いくら言っても譲位しようとしない正親町天皇に業を煮やした信長は、天正7年(1579年)11月に自分の京都宿舎用に二条家の屋敷を借り受け改築してあった邸宅を誠仁親王へ寄進して”御所”とし、以後”誠仁親王を事実上の天皇”として扱い始めました。

 

当時これを”下御所”と称し、正親町天皇の御所を”上御所”と称して使い分けたようです。

 

後の話になりますが、織田信長が明智光秀により『本能寺の変(天正10年6月の政変)』で横死し、その11日後に起こった『山崎の戦い』で豊臣秀吉によって明智光秀始め室町幕府関係者が壊滅させられたあと、”正親町天皇”は豊臣秀吉を手足のように使い、裏に回ってやっと念願の政治実権を握りますが、織田信長の尻馬に乗ってしまった息子を決して許さず、その後も息子である誠仁親王には譲らないで、天正14年(1586年)11月に孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位しています。

 

 

と言う事で、、、

 

勤皇派とみられる織田信長が、正親町天皇に譲位(退位)を迫った理由は、政治的野心を持つ朝廷に危険性を感じたと言うのが、本当の所ではなかったでしょうか。

 

そう考えると、信長は正親町天皇のことを、『永禄8年の政変』ー”三好三人衆と松永久秀による将軍足利義輝の謀殺”の黒幕としても疑ったのかもしれませんね。


(画像引用:Wikipedia正親町天皇画像

 

織田信長は天皇家を滅ぼそうとしていたの?

戦前の所謂『皇国史観』の時代は、”織田信長は天皇を崇拝し、朝廷への財政援助を適宜するなど良好な関係を保っていた為に、天下統一にも成功した”とされていましたが、戦後は天皇・朝廷と言う伝統的権威と戦う事によって、新しい国造りを目指した『革命家』・『改革者』として位置づけられました。

 

しかし、最近の研究では、両者の関係に関して、信長も朝廷もお互いに戦い合うのではなくて、”利用し合う協調路線”を取り、『相互補完関係』にあったと言う議論に落ち着き始めています。

 

そもそも、”織田信長が天皇を滅ぼそうと考えていた”と云う話は、、、

 

彼は大勢の貴人たちがいる前で私に向かい、「内裏も公方様も気にするには及ばぬ。すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみを行ない、汝は欲するところにいるがよい」と申されました。
(引用:ルイスフロイス『日本史ー織田信長編Ⅱ 第38章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)

 

と、織田信長は天皇・朝廷を問題にしていないと宣教師ルイスフロイスに語ります。そして、ルイスフロイスの『本能寺の変』後の信長に対するコメントは、、、

 

・・・かくて彼はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように処遇されることだけに満足せず、全身に燃え上がったこの悪魔的傲慢さから、・・・自らが単に地上の死すべき人間としてではなくて、あたかも神的生命を有し、不滅の王であるかのように万人から礼拝されることを希望した。
(引用:ルイスフロイス『日本史ー織田信長編 第55章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)

 

と言うように、”傲慢で神をも恐れぬ信長のイメージ”を作るバテレンの宣教師たちの話が基礎にあって広まった説なのではないかとも思われます。

 

また、『信長公記』には、、、

 

五月廿九日、信長公御上洛。・・・御小姓衆二、三十人召し連れられ、御上洛。直ちに中国へ御発向なさるべきの間、御陣用意仕り候て、御一左右次第罷り立つべきの旨、御触れにて、今度は、御伴これなし。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻十五 天正十年壬午 信長公御上洛の事』インターネット公開版

 

ここで問題なのは『御一左右(いっそう)次第』の所で、”信長は豊臣秀吉の要請に基づいて中国戦線(対毛利戦)へ援軍として出陣する”前に、京都で『いっそう(一掃)』すると述べており、この『一掃』が何を意味するのかと言う事です。

 

歴史作家八切止夫氏は、著書『信長殺し、光秀ではない』の中で、、、

 

この『信長公記』にある『いっそう(一掃)』の記事を問題にして、”信長は『何かを一掃するために』上洛して来た。『本能寺の変』の間、在京大名衆の在京兵ほぼ2000名が信長救出に動かなかったのは、所司代の村井長門守から「絶対に出動するべからず」の命が出ていたからだと思われる。この信長が『一掃すべき人物』はかなり大物だったと考えられる”としています。

 

そして、”変事の前日6月1日に、本能寺に主な公家衆40名以上が大挙して押しかけて来たとの記事(『言経卿記』)があり、どうも信長の『一掃』の対象がひょっとしたら、”公家衆および禁裏”に対する殺戮なのではないかと疑って嘆願に来たのではないか。その証拠に宮中の女房衆はその日に宿下がりをして御所から避難していることなどある。”としています。

 

つまり、ここにも当時織田信長による『朝廷滅亡説』が存在した可能性があることを指摘しています。

 

しかし、前出の織田信長研究家の谷口克広氏は、”織田信長は、いざとなったら『勅命』と言う手段も使える朝廷との関係を失いたくなかった”と考えられ、信長自身が天皇・朝廷を滅ぼすような考えはありえないとしています。

 

概ね、谷口氏の意見に集約されるようで、フロイスのキリスト教中心主義の一方的な考え方および八切氏の興味深い指摘は、ちょっと極端過ぎてこの件に関しては当てはまらないのではないかと思われます。

 

織田信長はキリスト教の布教を巡って正親町天皇と対立していたの?

イエズス会は、宣教師ヴィレラが永禄3年(1560年)に将軍足利義輝(あしかが よしてる)から”布教許可”の制札を取って、京都での布教活動を精力的に行っていました。

 

それに対する『キリシタン禁教』の動きは、永禄6年(1563年)にお膝元の京都で勢力を拡げ始めるキリスト教に危機感を覚えた比叡山延暦寺より、時の京都の権力者松永久秀(まつなが ひさひで)に”京都からのキリシタン(宣教師)追放”を求めたことから始まったとされます。

 

翌永禄7年(1564年)に松永久秀から将軍を通さずに朝廷に対して”改元の申請”が出されており、『キリシタン禁教の訴え』を退けた将軍義輝に対する朝廷側の報復措置かとも考えられます。

 

そして永禄8年(1565年)5月19日の『将軍足利義輝弑逆事件』で、義輝が暗殺されると正親町帝はすぐに、将軍義輝が出した布教許可を取り消し、7月5日には、”女房奉書”の形で『大うすはらい(キリシタン追放令)』がなされ、宣教師ヴィレラとルイス・フロイスは京都から追放されました

 

 

そこで、織田信長の登場です。

 

永禄11年(1568年)9月、正親町帝の上洛命令を受ける形で、足利義昭を奉戴して織田信長が上洛し、その上洛戦で活躍した武将の和田惟政(わだ これまさ)の取りなしで、信長はバテレンの京都復帰を許可します。

 

翌永禄12年(1569年)4月15日付にて、将軍となっていた義昭より、正式の”制札”が発給されて、バテレンの復帰は叶いました。

 

信長の方は、4月8日付で寺社に与える『禁制』に近いものをバテレンに発給しました。

 

これで織田信長は、完全にキリスト教布教の自由を認めたことになりました。

 

織田信長が謁見の時にフロイスに示した態度は、フロイス自身は『不遜だとか傲慢だとか』受け取っていますが、御所への参内など論外で足利義昭も当てにならず、頼りになるのは自分だけだと信長が示したものでした。

 

信長はフロイスの要請に基づいて、正親町帝のバテレン排斥の意を受けた日蓮宗の朝山日乗(あさやま にちじょう)と宗教論争を4月19日にさせます。

 

翌日の4月20日に岐阜へ帰城しますが、信長不在をついてその四日後に正親町帝は、朝山日乗に”バテレン追放の綸旨(りんじ)”を出します

 

デウスの教えを説くバテレンが日本古来の神仏を否定する存在である以上、神道(しんとう)・陰陽道(おんみょうどう)を国の宗教としてきた朝廷として、正親町帝はバテレンへの攻撃・追放を実行する立場なのです。

 

以後、”正親町帝のバテレン追放綸旨”を持つ朝山日乗と、”将軍足利義昭と織田信長のキリスト教布教許可の朱印状”を持つ和田惟政が各所で衝突し、正親町帝と織田信長の代理抗争が繰り広げられました。

 

一方信長は、前出のようにフロイスに対して、、、

 

彼は大勢の貴人たちがいる前で私に向かい、「内裏も公方様も気にするには及ばぬ。すべては予の権力の下にあり、予が述べることのみを行ない、汝は欲するところにいるがよい」と申されました。
(引用:ルイスフロイス『日本史ー織田信長編Ⅱ 第38章』松田毅一・川崎桃太訳 中公文庫)

 

これを手掛かりに、イエズス会は京都で堂々と布教活動を繰り広げ、ここに至って”正親町帝の綸旨”は意味をなさず、正親町帝の意志はまったく無視されることとなりました。

 

こうして、朝廷への協力者として、大いに織田信長の上洛に期待していた正親町帝の思いは裏切られ、帝と信長の対立関係がどんどん表面化していくこととなります。

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織田信長が警戒する王政復古の動きはあったの?

動きもなにも、信長期の天皇である正親町帝(おおぎまちてい)は”王政復古”を強烈に願っていた天皇まさにその人でした。

 

私たちの学ぶ日本史では、この戦国時代の中心人物は武将たちで、京都の話は末期の室町幕府将軍足利義昭(あしかが よしあき)くらいです。教科書日本史では、朝廷の話・天皇の話はほぼ目立たなくなっています

 

実は、この歴史を陰で動かしていたのは朝廷であり、この時代の本当のディレクターは、天皇・朝廷、特に『正親町天皇』であったことを知る必要がありそうです。

 

 

鎌倉幕府が始まった文治元年(1185年)以来、武家政権に初めて挑み、東西分割をひとつにしようとする『公家一統(くげいっとう)ー朝廷による国家統一』を実現しようとしたのは、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)でした。

 

後鳥羽上皇は、言ってみればこれも『王政復古の動き』である承久3年(1221年)に起こった『承久の乱(じょうきゅうのらん)』を引き起こしました。

 

これは、源家が滅び北条氏が執権として実権を握ってから2年後の事で、朝廷の挙兵に全国の御家人たちは皆”天皇の威光”にひれ伏すと読んでのものでしたが、結果は上皇の読み違えで御家人の人数は集まらず敗北し、後鳥羽上皇は隠岐島へ配流となりました。

 

そしてさらに、第96代後醍醐天皇は末期となった鎌倉幕府への”討幕計画”を立て、結果、元弘3年(1333年)に後醍醐帝を奉戴する反幕勢力が幕府に打ち勝ち、史上有名な『建武の新政』と称する天皇親政を始めます

 

しかし、東国で北条家の残党討伐を行なっていた足利尊氏が『天皇親政』から離脱し、建武3年(1336年)5月に『湊川の戦い』で後醍醐軍の楠正成が足利軍に敗れて、『建武の新政』は2年半で瓦解しました。

 

その後も吉野へ移って頑張る後醍醐天皇が南朝となり、足利尊氏の奉戴する北朝と並立する南北朝時代を迎え、結局60年後に統一しますが、世は足利尊氏を初代とする『室町幕府』の武家政治に戻っていました

 

正親町帝は、弘治3年(1557年)10月27日のその即位以来『王政復古』を狙い続けていたようです。勿論、330年前の後鳥羽上皇、220年前の後醍醐天皇の轍を踏まないようにと考えてのことでしょう。

 

それは丁度織田信長の活躍が始まり始めた頃で、永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』で、幕府足利家につながる太守今川義元(いまがわ よしもと)を討ち取った若武者の織田信長は、正親町帝の目に止まったものと思われます。

 

永禄3年に第13代将軍足利義輝が、イエズス会のヴィレラに京都での布教許可を与えたことに始まる前述したキリスト教布教問題”に関し、正親町帝と将軍足利義輝は激しく対立します。

 

そして、ついに正親町帝の手下の武将とも言えそうな”松永久秀”は三好三兄弟と語らって、永禄8年(1565年)5月19日に正親町帝の意を受けての事か、なんと現職の将軍義輝を暗殺すると云う大事件を引き起こします。

 

将軍足利義輝を滅亡させた正親町帝は、すぐさま7月に『バテレン追放』を実施し、その後矢継ぎ早に”天皇親政”の動きをしますが、力をつけ始めた松永久秀と室町幕府を動かす三好一族との確執が目立ち始めます。

 

そこで正親町帝は、田舎侍でありながら力があり京都に比較的近く、朝廷に対する奉仕精神が認められる有望な”織田信長”を手下のひとりに加えようと、信長に上洛を促します。要するに、信長をうまく使ってもうひとつ思い通りにならない松永・三好勢力の排除を考えたのではないでしょうか。

 

期待に応えた信長は上洛を果たし、松永・三好の勢力を排除しますが、正親町帝の意向に反して徐々に”武家独裁の政権樹立”を目指し、尚且つ”キリスト教の庇護者”として動きます。

 

諦めない正親町帝は、次に、出身が公家でも武士でも農民ですらない”豊臣秀吉”を有力者として目をつけ、手下となっている室町幕府奉公衆重鎮の細川藤孝(ほそかわ ふじたか)を使って秀吉を手駒とすることに成功します。

 

正親町帝は謀臣細川藤孝とともに、天正10年(1582年)6月2日~13日の短期間に、明智光秀と豊臣秀吉を使って、織田政権(本能寺の変)と室町幕府(山崎の戦い)の同時消滅させることに成功します。

 

豊臣秀吉は正親町帝の期待に応えて、天正13年(1585年)関白に就任し、帝の考える朝廷による天下統一(実は天皇親政)を果たします

 

しかし、すべてを見て実態を見抜いていた徳川家康によって、再び”武家独裁”の徳川幕府を作られてしまったと言うのが、この戦国末期の歴史の流れのようです。

 

この話は、中世政治史研究家の小林正信氏の説で、まだ異説のひとつでしかないのかもしれませんが、いろいろな謎がほとんど解けるような腑に落ちる筋の通った話になりそうですね。やはり偶然とかの話ではなかったようです。

 

『本能寺の変(明智光秀の乱)』後の、豊臣秀吉の手際の良さ(『中国大返しの謎』、『山崎の戦いの勝利』、『清須会議の手際』、『賤ヶ岳の戦いの勝利』、『小牧長久手の戦いの始末の仕方』と言う一連の秀吉の行動)もこれで理由が分かります。(勿論、毛利の小早川隆景と安国寺恵瓊もグルですからね)

 

織田信長は勤皇家だった?

明治の大ジャーナリスト徳富蘇峰(とくとみ そほう)によると、、、

 

勤皇は、当時における人心の傾向であった。・・・すなわち名もなき地方の郷士さえも、皇室に献金したほどであった。・・・。勤皇は、織田信長の独専事業ではない。・・・。彼の勤皇は、積極的であった。徹底的であった。・・・更に特筆すべきは、信長が、伝統的、因襲的でなくて、政治的に皇室の尊厳を認めたことである。皇室をもって、天下統一の中枢と為したことである。
(引用:徳富蘇峰 『近世日本国民史 織田信長(一)第九章の七』1980年 講談社学術文庫)

 

この信長の勤皇は、父信秀譲りのものだと考えられます。

 

父信秀に関しては、、、

 

・・・、内裏ノ四面ノ築地ノ蓋ヲ、尾張ノヲタノ弾正ト云フ物修理シテ進上可申之由申、はや料足四千貫計上了云々、於事實者不思議ノ大營歟、
(引用:『多聞院日記 天文十二年二月十四日』国立国会図書館デジタルコレクション

 

織田信秀が、伊勢神宮の遷宮費用に多額の寄進したことが朝廷で評判となり、公家たちが皇居の修理費用を信秀に無心したところ、信秀から受諾の返事があったと言うものです。

 

4千貫と言うと、今のお金で4億円くらいになるかと思います。朝廷にすれば、信長の父織田信秀は朝廷の”大スポンサー”な訳ですね。

 

お金でたかが図れるわけではありませんが、大変な勤皇家であったことは間違いないようです。

 

永禄11年(1568年)9月織田信長は、正親町帝の上洛要請も受けて足利義昭を奉戴して上洛を果たしますが、その翌年初の『本圀寺事件』を受けて、その対策として行った将軍家の為の二条城築造とともに、御所の修築を一万貫(約10億円くらい)の費用をかけて元亀2年(1571年)まで行い、正親町帝を大いに喜ばせました

 

言ってみれば、織田信長のおかげで”禁裏”もいくらか尊厳が保てるようになって行った訳です。

 

 

その後、、、

 

七月三日、禁中において親王様御鞠遊ばさる。式掌の儀式、御結構申すに足らず。御馬廻ばかり召し列れられ、御毬過し候て、信長、くろ戸の御所御をき縁まで御祇候。忝くも、天盃、御さいの内にて御拝領。御見物は清涼殿の御庭なり。
(引用:太田和泉守『信長公記 巻八 禁中において親王様御毬遊ばさるゝの事』インターネット公開版

 

のように、信長も御所に呼ばれて、親王様たちの蹴鞠会の相手までして、正親町帝より天盃を拝領するなど、禁裏との関係は極めて良好な様子で、帝の信長に対する期待も膨れ上がって行きました。

 

しかし一方で、『キリシタン禁教問題』ではっきり正親町帝との立場の違いを示すなど、織田信長の場合は豊臣秀吉とは違い、天皇に盲従するような関係ではない『勤皇』であったと言えそうです。

 

まとめ

織田信長の出た織田家のルーツは、越前国丹生郡織田庄にあった”劔神社(つるぎじんじゃ)”の神官であったと伝えられ、そのため織田家は仏教徒ではなくて神道系の信者でした。

 

”大うつけ者と言われていた信長”の有名な逸話に、大須万松寺(おおす ばんしょうじ)で行われた父信秀の葬儀時に『焼香に使う抹香を投げつけた事件』と言うのがありますが、それはその時の父信秀葬儀が、信秀の信心に合わせた神式の葬儀ではなく、仏式の葬儀だったことが原因だったとも言われています。

 

こうしたことからも、織田信長は”神道の大本山のような禁裏と代表する天皇”に対する尊敬の念は人一倍であったと考えられます。

 

その為に信長の神社保護に対する政策は手厚いものがあり、信秀に倣って信長も天正9年(1581年)に”伊勢神宮”御師上部貞永(”いせじんぐう”おし うわべさだなが)の要請により、『内宮・外宮両宮の遷宮』に乗り出し、3000貫(約3億円)の費用を約束し、すぐさま嫡男信忠に命じて3000貫の銭を、岐阜城から船で伊勢まで送り届けたと言います。

 

本貫の”劔神社”も後年、織田信長の支配地域になると、手厚く保護され、社殿の修理の外、課税の免除など優遇策が取られたようです。

 

こんな姿から、通説では織田信長は”熱烈な勤皇武士”であったと言われ、実は今上天皇である正親町帝との間に、深刻な『政争』があったことはあまり知られていません。

 

前述しましたが、、、

 

源頼朝が文治元年(1185年)に東国の鎌倉で武家政治を始めて以来、事実上政治の実権を失った朝廷は、政権復帰『王政復古(おうせいふっこ)』の希望を持ち続けていました。

 

鎌倉幕府の創業家の源家が絶えて執権である北条得宗家(ほうじょうとくそうけ)へ政治の実権が移った政権揺籃のタイミングを捉えて、承久3年(1221年)上皇後鳥羽院が『王政復古』を目的とする叛乱(承久の乱)を起しました。

 

しかし、後鳥羽上皇の思惑は外れて、この乱に従う武家は集まらず、乱は鎮圧され上皇は隠岐島へ配流となりました。

 

そして後年、第96代後醍醐天皇は末期となった鎌倉幕府への”討幕計画”を立て続け、結果元弘3年(1333年)に後醍醐帝を奉戴する反幕勢力が幕府に打ち勝ち、史上有名な『建武の新政』で天皇親政を始めます。

 

しかし、東国で北条家残党の掃討戦を行なっていた”足利尊氏(あしかが たかうじ)”が『天皇親政』から離脱し、建武3年(1336年)5月に『湊川(みなとがわ)の戦い』で楠正成(くすのき まさしげ)が足利軍に敗れて、『建武の新政』は2年半で瓦解しました。

 

その後も吉野へ移って粘る後醍醐天皇が南朝となり、足利尊氏の奉戴する北朝と並立する南北朝時代を迎え、結局60年後に統一しますが、世は足利尊氏を初代とする『室町幕府』の武家政治体制に戻っていました

 

それから、220余年を経過した弘治3年(1557年)に帝位に就いた”正親町帝”は、ふたたびその『王政復古』の志を強く持つ天皇として登場しました。

 

この時代の歴史は、権謀術策を駆使して戦国の時代を生き抜く戦国武将たちばかりにスポットを当てて記述されますが、実はこの正親町帝も”戦国天皇”と呼ぶにふさわしい人物でした。

 

  1. 松永久秀を重用して将軍義輝の暗殺
  2. 織田信長を使って京都に跋扈する三好・松永勢力の排除
  3. 室町幕府奉公衆重鎮の明智光秀を使って織田信長の暗殺
  4. 出自が武家でも公家でもない織田家の有力武将豊臣秀吉と室町幕府奉公衆重鎮細川藤孝を使って室町幕府の滅亡

 

正親町天皇は、これ等を企画実行し、表舞台には豊臣秀吉を出し、天下人として武家を統治させて、その後天皇に忠誠を誓う”関白”に就任させて『公家一統(くげいっとう)』の『王政復古』を事実上復活させることに成功すると云う『稀代の陰謀家』でした。

 

『本能寺の変』・『山崎の戦い』の終了後、公家の主だった人々が集まり”宴会”をやったとの話も伝わっており、案外これは実話ではないかと思われます。

 

戦国の覇王織田信長は、ひょっとすると幕末の徳川第15代将軍徳川慶喜と同様に、『天皇』と”陰謀公家衆”が主導する『王政復古』の朝廷政治勢力によって、政治権力の舞台から強制退場させられたのかもしれません。

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参考文献

〇日本史史料研究家編 『信長研究の最前線』(2014年 洋泉社)

〇日本史史料研究会監修『信長研究の最前線②』(2017年 洋泉社)
渡邊大門編

〇小林正信 『正親町帝時代史論』(2012年 岩田書院)

〇小林正信 『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

〇谷口克広 『織田信長の外交』(2015年 祥伝社新書)

〇ルイスフロイス 『完訳フロイス日本史3 織田信長編Ⅲ』(2014年 中公文庫)
松田毅一・川崎桃太訳

〇ルイスフロイス 『完訳フロイス日本史2 織田信長編Ⅱ』(2015年 中公文庫)
松田毅一・川崎桃太訳

〇八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

太田和泉守『信長公記 巻十五 天正十年壬午 信長公御上洛の事』インターネット公開版

〇立花京子 『信長と十字架』(2004年 集英社新書)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 織田信長(一)』(1980年 講談社学術文庫)

〇徳富蘇峰 『近世日本国民史 織田信長(二)』(1980年 講談社学術文庫)

『多聞院日記 天文十二年二月十四日』国立国会図書館デジタルコレクション

太田和泉守『信長公記 巻八 禁中において親王様御毬遊ばさるゝの事』インターネット公開版

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