織田信長は足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させた!ホント?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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織田信長が将軍足利義昭を追放して室町幕府が滅亡した?の真相がわかります。

 

織田信長足利義昭仲が悪かったのはほんとうでしょうか?

 

明智光秀は、足利義昭織田信長にとって、どんな人物だったのでしょうか?

 

足利義昭は『本能寺の変』に関わったのでしょうか?

織田信長は本当に足利義昭の室町幕府を滅亡させたの?

従来定説では、室町幕府の滅亡は、元亀4年(1573年)7月3日に足利義昭(あしかが よしあき)が、戦国当時京都伏見にあった巨椋池(おぐらいけ)の中島にある”槇島城(まきしまじょう)”で織田信長討伐に再挙兵し、7月19日に降伏し”京都から追放された”時であるとされています。

 

歴史教科書では、ほとんどこの説を採って話を進めています。

 

しかしこれには異説があり、この時信長足利義昭の処刑をせず、また将軍職の解任もしていないため、備後の鞆(とも)に動座してからも足利義昭は、幕府として活動していた?ともみられており、本当の終焉は、義昭が天正16年(1588年)1月13日に関白豊臣秀吉に従って参内して、忠誠を誓った時までとされています。

 

しかも織田信長が朝廷に対して足利義昭の解任を求めていないことから、朝廷の職員録である『公卿補任(くぎょうぶにん)』には前述の時期まで”将軍として足利義昭”の記録があると言います。

 

もし、最後の将軍が退任又は死去した時をその幕府の終焉とするなら、この時織田信長は義昭を辞めさせたり殺害したりしていませんので、信長は室町幕府を滅亡させてはいないことになりますね。

 

また、将軍足利義昭の幕府は、織田信長の傀儡(かいらい)政権であると言われていますし、私もそう言う風に覚えた気がします。

 

これに対して、歴史研究家の小林正信(こばやし まさのぶ)氏によりますと、、、

 

将軍足利義昭は、室町幕府の法規を定めた『殿中御掟(でんちゅうおんおきて)』を守らず、将軍から統治権を委任されている織田信長と衝突を繰り返して行きますが、言わば主導権争いの槇島城の敗戦で、政治的な失脚をしてしまい、孤立して”出奔した(自分から出て行った)”と言うのが真相で、”追放した”わけではないと言います。

 

簡単に云えば、室町幕府の決められた将軍の権限を大きく逸脱して、能力もないのに好き勝手放題を行う足利義昭に対して、幕府の実務官僚組織と”統治権的支配権者”である織田信長が手を焼き、諫めていくのですが、それに腹をたてて持てる武力を使い反攻している状態ですね。

 

足利義昭(一乗院門跡”覚慶”から還俗)は、室町幕府と云う組織を知識不足からか理解せず、”将軍とは絶対権力者である”から、将軍になれば何でも自分の思う通り出来ると思い込んでいた義昭が、現実に遭遇して空回りしていると言う事です。

 

所詮、足利義昭と言う人物は、”室町幕府における将軍の持つ「君主権」”と云うものを理解していなかったようです。

 

いずれにせよ、追放により、頭=将軍足利義昭は、いなくなったのですが、実質織田信長が”将軍代行”を務める形で、胴体の『室町幕府』は”政庁”として機能し続けていたと言います。

 

『室町幕府』には、この将軍不在のケースは前例があり、”永禄8年の政変”と言われていますが、義昭の長兄である第13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)が、三好・松永の軍勢に永禄8年(1565年)に暗殺されてから、14代将軍足利義栄(あしかが よしひで)が永禄11年(1568年)に就任するまでの3年間将軍職は空位でした。

 

その間も、幕政は『奉公(ほうこう)衆』を中心に運営されており、将軍と幕府組織は分離して機能しているので将軍の不在と幕府滅亡は連動しないのです。

 

追放に関しても、明応2年(1493年)4月に管領細川政元(ほそかわ まさもと)が、日野富子(ひの とみこ)の命を受けて挙兵・クーデターを起した『明応の変』で、10代将軍足利義植(あしかが よしたね)は追放されましたが、13年後の永正5年(1508年)返り咲いています。

 

このように、”室町幕府”はしぶとく生き続けているようです。


(画像引用:足利義昭座像Wikipedia)

 

織田信長と足利義昭は仲が悪かった?

室町幕府の13代将軍足利義輝の求めに応じて、上杉謙信が永禄2年(1559年)4月に兵5000を引き連れて上洛したのは、知られたお話ですが、織田信長はこれより前の永禄2年2月2日に将軍義輝に謁見しているとの話もあります。

 

永禄3年(1560年)5月19日の『桶狭間の戦い』で、上洛中の駿遠三の太守今川義元を討取ったのは有名な話ですが、このように将軍足利義輝が地方大名を呼び寄せていた背景は、将軍足利義輝が”統治権的支配者(天下人)”である三好・松永氏を排除するための武力援助を求めてのことでした。

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足利義輝に関して、、、

 

先の公方光源院義照御生害、同御舎弟鹿苑院殿、其の外、諸侯の衆歴々討死の事。其の濫觴者、三好修理大夫天下の執権たるに依って、内々、三好に遺恨おぼしめされるべきと、兼ねて存知、御謀叛を企てらるるの由、申し掠め、事を左右に寄せ、永禄八年五月十九日に、清水詣と号し、早朝より人数をよせ、即ち緒勢殿申へ乱れ入る。
(引用:太田牛一『信長公記 巻首 公方様御生害の事』インターネット公開版

 

とあり、三好・松永に先手を打たれて、13代将軍足利義輝は暗殺されます。

 

三好・松永にとってみれば、地方から自分達を始末する為に軍団を引き入れようとする将軍義輝に対する”正当防衛”なのかもしれません。

 

室町幕府はこのような”将軍と天下人”の二元統治になっているため、両者の衝突は避けがたく必然です。

 

一条院門主覚慶から還俗した”足利義昭”も、”織田信長”の武力を背景に永禄11年(1568年)9月28日に上洛して、晴れて”征夷大将軍の宣下”を受け、幕府を再興してみたものの、将軍になる前に思い描いた自分の権限を大幅に制限する”天下人織田信長”の存在が目障りとなり、事件の経過とともに関係は悪化して行きます。

 

元亀4年(1573年)になると、、

 

さる程に、公方様御謀叛おぼしめしたつるの由、其の隠れなく候。子細は非分の御働き、御勿体なきの旨、去る年、十七条を捧げ、御意見の次第。
・・・・・・・・・・・
右の旨御意見のところ、金言御耳に逆らひ候。
(引用:太田牛一『信長公記 巻六 公方様御謀叛 付十七ケ条のこと』インターネット公開版

 

とあり、織田信長が足利義昭の取決め違反・妨害行為・越権行為が多すぎてたまらず、十七項目に分けて記載し抗議を申し込んだものの、義昭は聞く耳を持たない状態だと述べています。

 

そして、再度の槇島城での挙兵は、、、

 

・・・公方様御城郭は是に過ぎたる構へこれなしと、おぼしめされ、御動座候と雖も、今は詮なく、御手前の御一戦に取詰め候。今度、させる御不足も御座なきのところ、程なく御恩を忘れらる。御敵になられ候の間、爰にて御腹めさせ候はんずれども、天命をそろしく、御行衛おぼしめす儘にあるべからず。御命を助け、流し参らせ候て、先々にて、人の褒貶にのせ申さるべき由にて、・・・
一年御入洛の砌は、信長公供奉なされ、誠に草木も靡くばかりの御威勢にて、甍を並べ、前後を囲ひ、御果報いみじき公方様哉と、諸人敬ひ候へき。此の度は、引替へ、御鎧の袖をぬらさせられ、貧報公方と、上下指をさし、嘲哢をなし、御自滅とは申しながら、哀れなる有様、目もあてられず、・・・
(引用:太田牛一『信長公記 巻六 真木島にて御降参、公方様御牢人の事』インターネット公開版

 

とあり、義昭がこれ以上ない城郭として籠った槇島城も落城し、自分から始めた戦いなのだから、切腹させてもよいのだけれど、世評を考えてここは命を助けて追放にされた。一年前は信長公も供奉して、大将たちも前後を守り、大変な威勢だったのに、今は人々から指差し嘲笑され、哀れな様子だと言っています。

 

という訳で、当初から、義昭は本音では信長を家来のように仕えさせて、将軍の威勢を張って幕府は自分の自由に出来ると考えていた節があり、力の衰えた室町幕府の実情を理解することなく、すぐさま信長・幕府奉公衆のやり方に不満を募らせていたようです。

 

最盛期の室町幕府ですら、将軍の支配的統治権は実力者に握られていて、将軍は事実上制限された君主でしかなかった訳ですが、素人の足利義昭にそれがわかるはずもなく、天下人の織田信長と衝突するのは時間の問題であったことになります。

 

将軍足利義昭は将軍宣下を受けた段階で既に、事実上室町幕府の宰相である”政所執事(まんどころしつじ)”的役割を担っている”奉公衆”の明智光秀(あけち みつひで)の諫言にも耳を塞いていたのだと考えらえます。

 

織田信長が足利義昭を奉戴して上洛した時、『戦国時代』は終わったの?

織田信長の上洛軍が、京都の政界を牛耳っていた三好・松永勢を追い払った時から、『室町幕府』が終焉を迎えたようにみえるところから、そうした考え方が出ているのではないでしょうか。

 

前出の歴史研究家の小林正信氏の説をベースに考えると、、、

 

織田信長は、13代将軍足利義輝(あしかが よしてる)とその死後はその遺臣たち、細川藤孝(ほそかわ ふじたか)らの要請を受けて、義輝の実弟で興福寺一乗院門跡の覚慶(かくけい)を還俗させた足利義昭(あしかが よしあき)を奉じて上洛をし、室町幕府を再興しようとしました。

 

義昭は上洛し、第15代将軍となり、信長は室町幕府を形の上では再興したことになります。

 

つまり、『室町幕府』は終わったわけではなくて、再興されたことになり、そうなると掲題の”戦国時代”は終わっていないことになるのでしょうか。

 

信長自身は、経験のない”京都統治”に関して、すでに200年以上も京都周辺を統治して経験豊富な室町幕府の組織力を利用して、朝廷も含めた政局運営を計ろうとしていたと考えられます。

 

しかし、信長は本音のところ、室町幕府の持つ”自己矛盾”と、陥っている”制度疲労”から、”室町幕府”から新しい統治形態への変革の必要性を本能的には感じていたと思います。

 

言葉を変えれば、”室町幕府体制では、戦乱の世の中を静謐にさせる、終わらせることは出来ない”と感じていたと言うことでしょうか。

 

しかし、リアリストの織田信長は、第一段階は”よく出来た幕府の官僚組織”を使ってみることだったのでしょう。

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明智光秀は将軍足利義昭の何だったのか?

前述の織田信長が打った方策・手段の最大のものは、”室町幕府の有力奉公衆である明智光秀(あけち みつひで)”の活用だったようです。

 

織田家の有力武将とされる”明智光秀”に関して、記録で確認が出来る歴史上に出現するのは、前出の小林正信氏によると、信長の上洛から1か月半後の永禄11年(1568年)11月14日付の『吉田文書』『織田信長文書』だと言います。

 

この指摘以外でも、『明智光秀』と言う人物の前半生は全く不明とされていて突如、室町幕府の有力”奉公衆”と同時に織田軍の最有力武将として現れます

 

そして、この17年後の天正10年(1582年)6月2日に京都本能寺滞在中の織田信長を襲撃する歴史上の大事件『本能寺の変』を引き起します。

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私などは、、、

 

信長は昔から実力本位の人事抜擢をし、地元の百姓の子倅にすぎなかった豊臣秀吉ですら有力大名となっていますので、齋藤道三の息子義龍によって滅亡させられた名族土岐一族の支流明智一族を出自とする放浪の”牢人明智光秀”が、信長の重臣になるのもありかなと思い込まされていました。

 

しかし、よく考えれば、放浪して朝倉氏に鉄砲の腕を買われて500貫で召し抱えられる食客のようにしていたところを、偶然現れた足利義昭に見出されて、同族であった信長正室濃姫によって、売り出し中の新鋭大名織田信長の面識も得て足利義昭に引き合わせたなどと言うアニメチックな話が、いくら戦国の混乱期とは言えある訳がないのです。

 

 

しかも以前から、歴史作家八切止夫氏によって、、、

 

丗日、戌辰、天晴、五墓日、・・・・〇織田弾正忠信長申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に被行、上下京地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向、予、五辻歩行之間、一條京橋迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乘馬、則明智十兵衛尉所へ被付了、彼所迄罷向、次歸宅了。
(引用:『言継卿記 永禄十三年二月丗日』国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

四日、庚午、天晴、・・・〇申刻織田弾正忠信長上洛、四五騎にて、上下丗人計にて被上、遂遂に終夜上云々、直に武家へ被参之間、予則参、於北郡様體御雑談被申、驚耳者也、次明智十兵衛所被行了。
(引用:『言継卿記 永禄十三年七月四日』国立国会図書館デジタルコレクション

 

この時期の第一級歴史史料とされている『言継卿記(ときつぎきょうき)』のこの部分で、織田信長上洛初期の段階で、明らかに信長は上洛の折に、明智光秀が所有する京都のお屋敷に宿泊している事、ほとんど宿舎にしているのが判明している事を指摘されていました。

 

つまり、浪々の身で、しかも召し抱えて間もないはずの貧乏牢人だった明智光秀が、この時期になぜ京都の二条御所周辺に大邸宅を構えていたのか、しかもまだ身元もはっきりしない小身者のところへ織田信長が泊るのはおかしいとしています。

 

信長の上洛がかなりの人数の共を連れてのもののはずなので、しかも天下人となった人物のセキュリティ問題もクリア出来る規模を持つ大邸宅でなければなりません。

 

この件の解決策として、前出の作家八切止夫氏は、この大名並みの屋敷は織田信長正室の濃姫が同族のよしみで信長に内密に配下の安藤伊賀守を使って美濃の金山の隠し資金を出して、京都二条屋敷を手当てさせていたと言う妙案を出されていましたが、それはとにかく通説の”明智光秀元牢人説”では説明がつかずかなりおかしいのです。

 

 

この大問題をあっさり解決してくれたのが、歴史研究家小林正信氏の説です。

 

それは、こうです。。。

 

『明智光秀』の名前が、永禄11年の織田信長上洛以後になって突然、一級史料で確認出来る歴史の舞台に、有力者として出現する『怪』を捉えて、『明智光秀』は、もともと室町幕府の”奉公衆”の有力メンバーだった人物であるとしました。

 

少なくとも、織田信長の美濃制圧以前にはまったく織田家臣の中に名前が現れてこない人物なのですから、相当な理由・目に見える実績があって信長がスカウトしてしかも重臣として起用しているわけですから、諸国を浪々していた不詳の人物ではありえないのです。

 

よく話に出て来る”有職故実(ゆうそくこじつ)”に詳しいだけではダメなので、信長が必要としていたのは、室町幕府の高級官僚であって、しかも組織を率いて京都の政府運営がこなせる有力者なのです。室町幕府の高級官僚である奉公衆には、京都の中心地に広大な屋敷も貸与されます。

 

上洛後天下人となってからは、不慣れな京都における『政府運営』を、室町幕府の吏僚たちに求めたことは、当然のことですが、そのチーフディレクターとしてスカウトした明智光秀と言う人物は、当然実績がある人材である必要があります。

 

こうしたことから、美濃土岐一族・明智一族とも関係があり、しかも室町幕府の奉公衆有力メンバーである人物が比定されることになります。

 

それは、前出小林正信氏によれば、、、

 

記の条件を満たす者で、信長の上洛後に突然歴史上に姿を現わすとなると、そもそも室町幕府の第13代将軍足利義輝の側近を務めていたものが、何らかの理由で改名をした以外は考えにくいこととなります。

 

ところが、改名をするとなると非常に目立ち、不自然なこととなり、当時の記録にはそのような人物は見られません。

 

しかし、永禄11年(1568年)足利義昭上洛後の再興室町幕府において将軍側近に復帰した人物の中で、法体の”奉公衆”が2名いることが判明しました。(法体であれば、その人物が還俗して社会に復帰する時に、一乗院門跡覚慶から足利義昭に名乗り変えるように、改名が成されます。)

 

その内のひとり、『進士知法師(しんし ちほうし)』が、該当の人物ではないかと言います。

 

歴史に埋没していますが、この”進士氏”は、第13代将軍足利義輝当時に、進士晴舎(しんし はるいえ)の妹が義輝の側室に入っていた関係で、進士家は将軍の外戚関係となり、”進士晴舎”とその子”進士藤延(しんし ふじのぶ)”は、義輝の代表的な側近となっていました。

 

永禄8年(1565年)の”五月政変”で、三好・松永勢の襲撃から義輝将軍を守ろうとして、父進士晴舎は討死し、息子進士藤延は逃げ伸びたものの出家したと言う事のようです。

 

 

ここに『明智系図』のひとつ『明智氏一族宮城家相伝系図書』に、、、

 

光秀 享禄元年(一五二八)戌子八月十七日、生於石津郡多羅(言岐阜県大垣市)云云、多羅ハ進士家ノ居城也、或ハ生明智城共云云、母ハ進士長江加賀右衛門尉信連ノ女也、名ヲ美佐保ト云、伝曰、光秀、実ハ妹聟進士山岸勘解由左右衛門尉信周之次男也、信周ハ長江信連ノ子也、光秀実母ハ光綱之妹也、進士家ハ於濃州号長江家、依領郡上郡長江ノ庄也、・・・
(引用:田中正信『明智の乱』(2014年 里文出版)の引用文より)

 

とあり、進士家(しんしけ)と光秀、明智家(あけちけ)の関係が記載されています。後年の江戸時代作でしょうから、既に明智光秀の説明文となっていますが、光秀が進士家の出身である可能性を示しているようです。

 

このように、足利義昭の代に復帰した進士藤延は、還俗時に”明智光秀”を名乗った可能性が高いと考えられます。

 

同じ”奉公衆”でも”御供衆”であった”細川藤孝”は、出家してなかったこともあり、そのまま義昭に仕えることとなりました。

 

”申次衆”の家格だった明智光秀(進士藤延)も、13代将軍足利義輝の側近となっていた(義輝の側室の兄)関係で、”奉公衆”の中でも家格以上の重臣となっていました。

 

細川藤孝ら”奉公衆”の目的は、時代の流れに抵抗してでも室町幕府の退潮をとどめて、再び隆盛を取り戻すことだったのです。

 

 

まとめますと、、、

 

明智光秀は、将軍足利義昭の側近の中の大物として扱われますが、それはもともと足利幕府の重臣である”奉公衆”の有力メンバーであり、幕府のトップとしての将軍足利義昭に仕える官僚だからです。

 

と同時に、足利義昭の有力スポンサーとしてばかりでなく、事実上の”天下人”である織田信長からも、光秀の関係する美濃を支配する織田家寄りの幕府重臣として信頼を受けていると言う存在でした。

 

織田信長暗殺(本能寺の変)に足利義昭は関係したの?

室町幕府内の”将軍”と”天下人”の主導権争いについて触れて来ましたが、そう考えると『本能寺の変』は何だったのでしょうか。

 

実は、室町幕府では『本能寺の変』とほぼ同様の事件が起こっていました

 

”織田信長”の前の『天下人』は、”三好長慶(みよし ながよし)”です。

 

武力で京都の統治をおこなっている三好長慶は、室町幕府の宰相的立場の”政所執事”伊勢貞孝(いせ さだたか)を味方につけ、将軍義輝と対立していましたが、永禄5年(1562年)8月に奉公衆らとともに伊勢貞孝が反乱を起こします。

 

この時期は、永禄3年(1560年)5月19日に尾張の織田信長が『桶狭間の戦い』で、駿遠三の太守今川義元を討取り、足利義輝の要請に応じて上洛も考えており、また越後の上杉謙信が上洛など、三好達に頼らなくとも、地方大名たちの軍事力を使って京都統治の可能性が出て来た時期でもありました。

 

そこで、三好長慶に従うフリをしていた政所執事の伊勢貞孝が義輝の賛意を得て、軍事行動を起こしたものです

 

その目的は、三好長慶にろう断されている幕政を室町幕府に取り戻すことにありました

 

この乱は、政所執事の伊勢貞孝親子が中心となって幕府奉公衆たちが”将軍による幕政を取り戻そう”として立ち上がったとされています。

 

ただ実態としては、その動きを察知した三好長慶が、代々世襲で”政所執事”をやっている伊勢家の貞孝を罷免したことによる、伊勢氏の叛乱であったようです。

 

天正10年(1582年)の『本能寺の変』の場合はどうでしょうか。。。

 

教科書で教えられたように信長側からの視点でしか物を見ていなかった私の眼には、明智光秀は将軍足利義昭から織田信長に乗り換えたただの武将としか映っていません。

 

ですから、『本能寺の変』の理由も信長に変って天下を取ろうとしたくらいの感覚でした。

 

しかし、実際の信長の京都支配は、最初から信長が室町幕府に代って、京都を中心とする畿内の統治をしていたわけではなくて、室町幕府に協力する形でスタートし、その幕府側が主体となって行う京都統治の責任者として明智光秀が織田家寄りの幕府官吏として活躍していたのです。

 

後に織田家側も織田家家臣を京都所司代(代官)として配置しますが、明智光秀に指導を受ける形でした。

 

ところが、明智光秀はどこまでも室町幕府の奉公衆の一人だったのです。

 

信長が室町幕府に代わる新しい政治組織を模索し始めると、信長と光秀は衝突を始め、立場的に前に叛乱を起した室町幕府政所執事の伊勢貞孝と同じ理由で、信長に対して反乱を起こすことになります

 

ご丁寧に、伊勢貞孝の時と同じように、天下人(ここでは織田信長)から、京都統治の任を罷免(ここでは領地召しあげの上、国替え)されるのです。

 

当然、同じリアクションである『叛乱』・『謀叛』の行動に走った訳です。

 

つまり、、、

 

言葉で言えば、永禄5年の伊勢貞孝・天正10年の明智光秀のふたりはともに、足利将軍以外の実力者の侵略行為に対して、室町幕府の組織運営責任者として『室町幕府の組織防衛』をするための幕府重臣たちの叛乱だったと結論付けられそうです。

 

 

『本能寺の変』に関して云えば、明智光秀を責任者とする『室町幕府の組織防衛するための幕臣たちの叛乱』だったとは言え、とても信頼できない放浪将軍足利義昭は、この件の事前相談に預かることはなく無関係だったと考えられます。

 

まとめ

織田信長と足利義昭の関係ですぐに連想されるワードは、『傀儡政権』と言う事ですし、事実通説では足利義昭の室町幕府は織田信長の言いなりみたいな雰囲気があります。

 

結論から言うと、この認識は間違っている点が多いと言わざるを得ません。

 

信長は武力と勢いに任せて、足利義昭を奉じて上洛しましたが、全くの田舎者で、権力慾の渦巻く首都京都の統治をするには、あまりにも経験不足でした。勘のいい信長は現実の政治を動かしている室町幕府の組織の力を借りる形で存在感を高めていきます。

 

その大事な協力者として、スカウトしたのが室町幕府の有力な奉公衆のひとりであり、200年続いた室町幕府の中でも特に典礼・儀式のスペシャリストであった奉公衆”進士家(しんしけ)”出身の明智光秀でした。

 

京都・畿内の織田家による統治は、明智光秀の働きで、将軍足利義昭と天下人織田信長を支える室町幕府官僚組織が見事に機能し始めます。

 

例えれば、、、

 

足利義昭の会社(政権)とは言っても、本人は名誉会長のようなもので、実際の代表取締役社長は織田信長、そして会社組織そのものは実力専務の明智光秀を筆頭とする『奉公衆』が働いて何とか事業運営が上手く行っている状態でしょうか。

 

しかし、思い通りに政策運営をさせてもらえない名誉会長の足利義昭は、実権を取り戻す為にあちらこちらの優良会社のオーナーたち(幕府恩顧の大名たち)を、うちの会社(幕府)を経営してみませんかと上洛を誘って回り、思う通りに行かぬと見ると自ら織田信長のスキを見てクーデターを仕掛けてみたものの返り討ちに遭って完全に失脚させられる始末となりました。

 

遠隔地の備後の鞆で不遇をかこっていると、遂に会社の解体・リニューアルを決意した織田社長を、実力専務の明智光秀が反乱を起こして暗殺を謀った、と言う事態が起こってしまったと考えられます

 

最後の最後に、織田信長は室町幕府を滅亡させることを決心し、それに京都統治責任者の明智光秀が気がついて、天正10年(1582年)6月2日に『本能寺の変』で阻止行動に出たと言うストーリーですから、信長は室町幕府を滅亡はさせていません

 

最終的に室町幕府滅亡させたのは、天正10年(1582年)6月13日の『山崎の戦い』で明智光秀始め室町幕府の主な要人を討取って組織壊滅させた豊臣秀吉だと言えそうですね。

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参考文献

〇谷口克広 『信長と将軍義昭』(2014年 中公新書)

〇小林正信 『明智光秀の乱』(2014年 里文出版)

〇奥野高広 『足利義昭』(1968年 吉川弘文館)

太田牛一『信長公記 巻首 公方様御生害の事』インターネット公開版

太田牛一『信長公記 巻六 公方様御謀叛 付十七ケ条のこと』インターネット公開版

太田牛一『信長公記 巻六 真木島にて御降参、公方様御牢人の事』インターネット公開版

『言継卿記 永禄十三年二月丗日』国立国会図書館デジタルコレクション

『言継卿記 永禄十三年七月四日』国立国会図書館デジタルコレクション

〇田中正信『明智の乱』(2014年 里文出版)

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