織田信長の尻を叩いて正室『帰蝶』は歴史を動かした!ホント?

織田信長から『於濃(おのう)』と呼ばれた正室『帰蝶(きちょう)』は、『奇蝶(きちょう)』だったかも!

 

信長は、『奇蝶』とその実家の美濃斎藤家に世話になりっぱなしでした!

 

奇蝶』と『本能寺の変』の関わり合いを明らかにします!

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『帰蝶(きちょう)』は、『奇蝶(きちょう)』なの?

古文書の『美濃旧記(みのきゅうき)』には、、、

 

・・・然るに、小見の方は、秀龍に嫁して、其後天文四乙未年、女子出産す。其後天文十八年二月廿四日、尾州古渡の城主織田上總介信長に嫁す。歸蝶といふ。又鷺山殿といふ。明智光秀の従兄弟なる・・・

(引用:『美濃國諸舊記 巻之二 土岐賴藝 松波庄五郎を取り立つる事』

 

とあり、この史料(”秀龍⦅ひでたつ⦆”とあるのは、後の”齋藤道三⦅さいとう どうさん⦆”のことです)の記述の影響で従来より、織田信長の正室美濃御前(濃姫)は、幼名・本名は『帰蝶(きちょう)』と呼ばれています

 

一方、歴史小説家中島道子(なかじま みちこ)氏によると、、、

 

・・・道三は、娘(のちの濃姫)に奇蝶という名を与えた。珍しくも奇(たえ)なる蝶という名には、道三の格別な愛(おもい)が込められた。そして、娘はその期待に違わず世にも美しい乙女に成長した。
(引用:中島道子『濃姫と熙子』河出書房新社)

 

とあり、非常にしっくり来るご説明ではないかと思います。

 

また、歴史小説家の八切止夫(やぎり とめお)氏によると、『奇蝶』の従兄弟(異説では異父兄)に当たる明智光秀”の”十兵衛”と呼ばれる前の幼名は『奇白丸』と称したと言いますし、信長の側室生駒殿(吉乃)が生んで『奇蝶』が側に置いて育てた当の信長の嫡男”信忠(のぶただ)”の幼名は『奇妙丸(きみょうまる)』と言います。

 

これは、先ず、土岐一族の支流の明智一族では、幼名に『奇』の字を使っていたようで、信長の嫡男の命名に関しても正室美濃御前(奇蝶)の影響があって名付けられた可能性が高く、そうであれば美濃御前も歴史作家八切止夫氏や、中島道子氏が述べているように『美濃旧記』にある『帰蝶』は発音だけで、実際は『奇蝶』であったのではないでしょうか。

 

後述するように、当時は信長は美濃御前に頭が上がらなかったようですから、『奇蝶』の言いなりで、嫡男も『奇妙丸』だったのではないでしょうか。


(画像引用:濃姫像AC画像)

『奇蝶』(信長)の要請で斎藤道三の美濃兵1000名が信長支援の為に尾張に応援(留守番)に入ったのは事実なの?

天文23年(1554年)1月に行われた対今川戦で、三河岡崎に駐屯していた今川の部隊が水野信元(みずの のぶもと)の緒川(おがわ)城攻略に動いた時の事でした。

 

信長は出陣する事としますが、まだ尾張領内の統一戦をやっている最中で、もし信長が緒川の救援に向かえば、留守を清須の部隊に襲われるのは火を見るよりも明らかな状態でした。

 

そこで、信長は嫁『奇蝶』の実家である美濃の斎藤道三に頼ることとします。

 

『信長公記(しんちょうこうき)』によりますと、、、

 

さる程に、駿河衆岡崎に在陣候て、・・・是を根城にして、小河の水野金吾構へ差し向かひ、村木と云ふ所、・・・駿河衆盾籠り候。・・・御後巻として、織田上総介信長御発足たるべきの旨候。併し、御敵、清洲より定めて御留守に那古野に取懸け、町を放火させては如何とおぼしめし、信長の御舅にて候斎藤山城道三かたへ、番手の人数を一勢乞ひに遣わされ候。道三かたより、正月十八日、那古野留守居として、安東伊賀守大将にて、人数千計り、・・・正月廿日、尾州に着き候き。居城那古野近所、志賀、田幡両郷に陣取り・・。
(引用:『信長公記 巻首 村木の取出攻められしの事』ネット公開版

 

となっていまして、これを見る限り、『奇蝶』が嫁入りの時に美濃より警護として同行した安藤伊賀守が兵1000名を引き連れて、信長出撃の留守居として那古野城の警備に駆け付けたことが分かります。

 

先ず、『奇蝶』から美濃の安藤伊賀(道三)へ援助要請が出されたことは間違いないところで、信長の尾張統一へ強力な後見役として『奇蝶』(信長の舅である美濃の斎藤道三)が機能していたようです。

 

 

これを見ても、戦国の姫たち(女性)は、今私たちがドラマや映画で観せられているきれいな着物を着て座敷の上座に鎮座しているような存在ではなくて、ほぼ男性と同じような役割を果たしていたことが分かります。

 

武術・腕力においても男性と伍していた人物も多かったようで、今歴史上の女性剣士と言うと、江戸千葉道場の”千葉佐那(ちば さな)”とか、江戸”新徴組”の”中澤琴(なかざわ こと)”とか、戊辰戦争での会津藩”山本八重(やまもと やえ)”などが幕末期に突然現れた特別な人物だと思ってしまいますが、江戸時代に徳川幕府が大名の跡取り(後継者)を男性に限定するまでは、戦国期に女性が戦場で男性に混じって参戦し一目置かれるのは珍しいことではなかったようなのです。

 

美貌と謳われた『奇蝶』も、ただの姫様ではなくて、信長を怒鳴りつけるような女性武者であってもおかしくはないのです。

 

つまり、歴史ではあまりにも”スター級の女性”しか、記録が残っていないものですから、知らない私たちは勘違いをしますが、武家の女性とは戦国期には戦力であったことも十分頭に入れておく必要があります。

 

時々、戦国時代に武家の女性が男性の武将並みに斬殺される場面がありますが、あれは相手にとっては男の武者と同様に女性も危険な敵なので、当然倒すべき対象とされていたことを示しているのです。

 

『奇蝶』も戦国の武家の女性として当然の行動をしていたと考えます。そして、さらに、実家の父(美濃国守斎藤道三)が実に頼りがいのある男だったわけですね。

『奇蝶』は信長の軍師なの?

前章の話の繰り返しになるかもしれませんが、信長の行動の陰に『奇蝶』ありと思った方がよいのかもしれません。

 

信長に関しては、嫡男信忠・次男信雄・徳姫などの生母である”生駒殿(吉乃)”のことが、頻繁に出て来て、『奇蝶』の記録が途絶えているようにみえることから、本当の正室は”吉乃(きつの)”だったのではないかとの話が出たりしますが、これはあり得ないでしょうね。

 

例えば、徳川家康の跡継ぎ秀忠の生母は”西郷の局”と言われる女性ですが、この方でさえ嫡男を生みながら鍛冶屋の娘だったために、正室になる話は全くありません

 

まして”吉乃(きつの)”は、尾張の名もない地侍である生駒将監(家宗)の出戻娘です。やはり名家土岐氏の血統”明智一族”の”小見の方(おみのかた)”の娘である『奇蝶』とは、レベルが違います

 

嫡男を生んだ側女が生母として権力を持つのは、江戸時代の将軍家の大奥になってからだと思います。

 

話を元に戻します。。。

 

 

信長が吉乃を気に入っていたのは、やはり頭脳明晰だったからだと言われています。

 

信長の周りに軍師や相談役があまり見当たらない、目立たないのは、彼の独善的な性格も然ることながら、案外女性たち(ここでは奇蝶)の知恵を活用していたからではないでしょうか。

 

豊臣秀吉徳川家康この信長のやり方を参考にしていたような気がします。

 

秀吉に関しては、後年の淀君のように女性を近づけても”女色”の対象としか考えていなかった節もありますが、家康は信長をよく観察していて、参謀に本多正信正純を重用していましたが、女性たちもよく使い、実は側室たちを陣中にも武装させてつれていたようです。

 

後年、家康の側用人役は家康の側室たちがほぼ担っていたことは有名で、家康は頭脳明晰な女性たちを大量にスカウトしていました。

 

慶長19年(1614年)の『大坂冬の陣』で、豊臣側との交渉に徳川方から家康の側室のトップ?である阿茶(あちゃ)の局』が参謀の本多正純(ほんだ まさずみ)を従えて乗り込んだのは有名な話です。

 

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これは、やはり信長のやり方をまねていたからだろうと思われます。

 

しかし、家康は『本能寺の変』で信長を斃(たお)してくれた大恩人”斎藤利三(さいとう としみつ)”の娘『ふく(春日局)』を重用しすぎたため、その死後”春日局”の幕政ろう断とも言える老中すらも顎で使われる状態を招いてしまったわけです・笑。

 

このように、後の”天下人”たちが信長のやり方をまねた位ですから、当時の信長に支配された武将たちの目には、信長を助け・操る知恵者・影の軍師『奇蝶』の印象が非常に強かったとも言えるのではないでしょうか。

 

信長も美濃斎藤義龍(さいとう よしたつ)の息子斎藤龍興(さいとう たつおき)を追い出したものの、美濃衆を指揮する美濃三人衆は皆、”信長”ではなくて『奇蝶』に絶対服従だったようですから、信長も渋々岐阜城の指揮権を渡していたんじゃないでしょうか。

 

岐阜城の家宰(家老)は、『奇蝶』の弟の齋藤玄蕃允(さいとう げんばのじょう)がやっていましたから。

 

おそらく『奇蝶』は、織田信長の”陰の参謀・軍師”だったと言っても過言ではないと思われます。

美濃斎藤氏の居城”稲葉山城”の落城原因である美濃の重臣の離反は『奇蝶』の調略?

永禄10年(1567年)8月1日に美濃三人衆と言われた、稲葉一鉄(いなば いってつ)、氏家卜全(うじいえ ぼくぜん)、安藤守就(あんどう もりなり)が信長に内応します。

 

8月15日には、斉藤龍興(さいとう たつおき)は降伏し、伊勢長島へ舟で退散しました。

 

太田牛一『信長公記(しんちょうこうき)』には、、、

 

八月朔日、美濃三人衆稲葉伊予守、氏家卜全、安東伊賀守申し合せ候て、信長公へ御身方参ずべく候間、人質を御請取り候へと、申し越し候。・・・・八月十五日、色々降参候て飛騨川のつづきにて候間、舟にて川内長島へ、龍興退散。

(引用:『信長公記』稲葉山御取り候事 ネット公開版

 

とあり、信長の美濃稲葉山城攻略が、正面からの力攻めではなくて美濃斎藤軍団の重臣らへの調略で成ったことが分かります。

 

『奇蝶』の実家である美濃斎藤家は、奇蝶の兄ではあるものの前守護職土岐頼芸(とき よりなり)の胤(たね)と言われる義龍(よしたつ)が旧土岐一族の支持を受けて、弘治2年(1556年)に父道三を打ち果たして稲葉山城の城主となっていました。

 

信長も何度も攻略を試みますが、美濃勢の力は強く容易に攻め落とせずにいました。

 

しかし、この義龍(一色義龍とも言われます)が永禄4年5月に持病で病没し、後を嫡男龍興(たつおき)が襲うと旧土岐家臣の結束も少し緩み、信長にチャンスが訪れたのです。

 

そこを突いて、『奇蝶』から旧主斎藤道三の命により”『奇蝶』のジイ役”を務め、過去に何度も信長の手助けをしている”安藤伊賀守”宛てに調略の手を伸ばし、土岐旧臣の中でも有力者である”美濃三人衆”の寝返りを成功させたと言う事です。

 

この辺りを『美濃旧記』では、、、

 

・・・信長は、容易く齋藤を征し難きを察して、永禄五年の夏より、濃州墨俣に足溜の砦を築きて、これに勢を籠めて、稲葉山に攻寄せ畢。其後、西美濃の勇士内山内勘解由左衛門、良策を以て敵を破らんと欲し、龍興を諌むと雖も、大将闇弱にして、之を用ひざるの間、・・・・西美濃十八将の面々之を憤りて、悉く居城々々に引籠りて、龍興を助けざりぬ。是に依って信長、其内變を察して、又々稲葉城を攻むる。斎藤、難儀に相なりけるの所、美濃四人衆・・・龍興を助けて、織田勢を破る。是に依って又々信長、利なくして引取り畢。斯くて信長手術を以で、右四人衆を味方に伏せしめ、而して之を攻むる故に斎藤方、良勢なくして難儀となり、・・・
(引用:『美濃國諸舊記 巻之二  土岐賴藝松波庄五郎を取立つる事』)

 

とあり、『美濃旧記』では、”龍興”のことを”闇弱(あんじゃく)”とまで言っているので、美濃衆の龍興人気がガタ落ちになっていたことが分かります。

 

信長は密偵からの情報で”龍興”の評判とその内紛を知り、今がチャンスとばかりに攻めて行ったものの美濃三人衆(美濃旧記では、不破道定⦅ふわ みちさだ⦆を加えて四人衆としている)にしてやられ、そこでこれを崩せば事足れりと『奇蝶』に安東伊賀守を口説かせたのでしょうね。

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『本能寺の変』に『奇蝶』は関わった!ホント?

『奇蝶』の存在に関する諸説

『奇蝶』に関して、今まで”離縁説”、”死亡説”、”生存説”など諸説あるようですが、、、

 

平成4年(2002年)に歴史家の岡田正人氏によって”鷺山殿(さぎやまどの)”と称されている『濃姫』と思われる女性の”法名(ほうめい)”が、安土総見寺蔵の『泰巌相公縁会名簿』の中に「養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台」と記載されていたと発表された。
(引用:ウィキペディア濃姫

 

それに従えば、『奇蝶』は、慶長17年(1613年)まで生存して78歳で天寿を全うしたことになり、”離縁説”、”死亡説”の分は悪くなるようです。

 

 

『美濃旧記』で、、、

 

天文十八年春に至り、・・・同年二月廿四日、尾州古渡に入輿し、上総介信長の北の方とぞ相なりぬ。道三本室の子は、此息女のみなり。・・・
(引用:『美濃國諸舊記 巻之二  土岐賴藝松波庄五郎を取立つる事』

 

とあるように、『奇蝶』が信長の御台所(正室)となったのは、間違いないところですから、安土総見寺で発見された史料は、『奇蝶』の生存を伝える貴重な記録なのではないでしょうか。

 

それを踏まえた上で、、、

歴史作家八切止夫氏の提示する『本能寺の変』の『奇蝶黒幕説』

歴史作家八切止夫(やぎり とめお)氏は著書で、”奇蝶”を『本能寺の変』を”仕掛けた人間のひとり”として描いています。

 

それによると、、、

 

『奇蝶』は天文18年(1549年)信長のところに輿入れ(こしいれ)した時から、並外れた財力をみせて那古野城内に”信長との新居の御殿”を建てて、強国美濃の一の姫の力示していたと言います。

 

その後も、信長が天文21年(1552年)に父信秀死去によって弾正忠家を相続したものの、周囲は全く認めずどんどん親戚地侍たちに領地を浸食される状況を見かねて、『帰蝶』は、信長の尾張統一に安藤伊賀守の美濃勢の部隊を度々使って援助します。

 

その後、美濃の御家騒動で弘治2年(1556年)道三が敗死して、道三の威光がなくなった『奇蝶』と信長に微妙な距離感が出始めたようです。

 

そして、永禄3年(1560年)になってやっと『桶狭間の戦い』で大ばくちを打ち、強敵今川義元を破る超大金星を挙げて、信長は”尾張統一”へ一気に走って行きます。

 

永禄6年(1563年)小牧山城へ信長は移転しますが、『奇蝶』は清洲に残り、小牧城には側室の生駒殿(吉乃)が入った(しかし永禄9年死去)と言われています。

 

翌永禄7年(1564年)に犬山城を攻略して尾張統一を完成させます。

 

それから、前述したように永禄10年(1567年)『奇蝶』の調略によって”美濃三人衆”が内応し、稲葉山城攻略が成ります。

 

そして、俄かには信長に従わない美濃衆への抑えのためもあり、信長の要請により『奇蝶』は父道三の城であった稲葉山城改め岐阜城へ移ります。

 

『奇蝶』と明智光秀の関わり合いと『本能寺の変』への流れ

岐阜城へ移る辺りから、従兄弟(異父兄とも言われる)明智光秀とのつながりが始まり、『奇蝶』の指示による(美濃衆安藤伊賀、弟斎藤玄蕃允の)美濃武儀銀山の隠し銀?による光秀への援助が始まったとされます。

 

通説と違い、明智光秀が細川藤孝を通じて足利義昭の厚誼を得て、織田信長の信を得て活躍出来たのは、ありもしない”有職故実(ゆうそくこじつ)”に通じていたなどと言う適当な話ではなくて、現実に資金力のある名家土岐家につながる武将であったという事です。

 

通説では、明智光秀は浪々の身のなかで、越前に流れて来た足利義昭の知遇を得る為に、妻の黒髪を売って資金を作ったなどと云う話が伝わっていますが、実際は、足利義昭を岐阜立政寺で信長に合わせる時に、500名の家臣を護衛に当らせたとの話(八切止夫氏引用『細川家記』永禄11年7月10日の条)とか、、、

 

他の有名なこの時代の史料である『言継卿記(ときつぐきょうき)』によれば、、、

 

丗日戌辰天晴、〇織田弾正忠信長申刻上洛、公家奉公衆、或江州或堅田、坂本、山中等へ迎に披行、上下京地下人一町に五人宛、吉田迄迎に罷向、予、五辻歩行之間、一條京橋迄罷向、則被下馬、一町計同道、又被乘馬、則明智十兵衛尉所へ被付了、彼所迄被罷向、次歸宅了、
〇戌刻召之間参内、長橋へ信長二荷両種遣云々、・・・
(引用:『言継卿記 永禄十三年二月の条』国立国会図書館デジタルコレクション

 

とあり、永禄13年/元亀元年(1571年)2月30日に信長一行が上洛して、案内役の公家山科言継卿が奉公衆を京都郊外まで出迎えに行かせて、洛中では自ら信長一行を引率して、なんと明智光秀の邸まで連れて行き、戌の刻(午後8時頃)に信長が参内して長橋の局に贈答品を送っている様子が記載されています。

 

問題は、翌日から御所のあちらこちらへ出かける訳ですが、どうやら信長は光秀の屋敷を宿所にしている様子が見て取れることです。

 

信長は行動する時にいつも700~800人規模の親衛隊を連れて歩いていましたので、当時今のような宿泊施設がない時代に、500人以上が宿泊するには、大きな規模の寺社を借りるしかないのですが、この時は光秀邸に宿泊しているようです。

 

これによると大変な規模の邸宅を光秀は京都に所有していたことになり、前述の足利義昭(あしかが よしあき)上洛時の様子と言い、俄か(にわか)に光秀が成金となって屋敷と家臣団を持ち、浪々の身のはずが6~7万石の大名クラスの身分で行動していたことが判明します。

 

信長光秀に対して名族土岐の末裔で身分のある人物として接している様子なのですが、光秀の身辺からそのような財源は見当たらず、これはどう考えても『奇蝶』の差し金と言う見方が濃厚になる訳です。

 

こうして、『奇蝶』ー 明智光秀 ー斉藤利三(土岐の支族たち及び家臣団)がつながって来ます。

 

別記事でも記述しましたが、この時期の信長は、重臣たちを排除して凡庸とも思える信長の息子たちへ家督を渡しつつある時期でした。

 

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天正8年(1580年)8月、織田家の重臣で功労者の佐久間信盛(さくま のぶもり)親子追放から始まって、それは『奇蝶』が頼りにしている美濃の重臣安藤伊賀守にも及び、家臣一同・大名たちに至るまで戦々恐々とし始めていました。

 

『本能寺の変』はそんな空気が信長政権内に充満している中で勃発(ぼっぱつ)したのです。

 

美濃の隠し資金?まで使って明智光秀(土岐一族ら)を支援していた『奇蝶』としては、我慢の限界が来ていたというのが、歴史作家八切止夫氏の筋書きでした。

 

ただ、我慢の限界に来ていたのは『奇蝶』だけではなかったようで、実行部隊の指揮は土岐一族である斎藤利三(さいとう としみつ)であることは間違いないところですが、果たして共犯と想定される人物・実行犯と思われる人物(秀吉、家康、公家衆等)が多すぎてよくわからないままとなっています。

 

そう言う意味において、『奇蝶』も『本能寺の変』に関わった可能性はあると言えそうです。

まとめ

織田信長の正室美濃御前(帰蝶=奇蝶)は、当初の婚姻の時に華々しく登場してその後、武将の正室として跡継ぎが出来なかったせいか歴史の表舞台から消えてしまっている(記録がない)人物です。

 

元来隣人同志の尾張人と美濃人は仲が悪いようです。

 

特に織田信長の父信秀は、”下剋上”の風雲に乗って実力で尾張のトップまで登り詰めた人物だったこともあり、勢力拡大の為に美濃へ頻繁に攻め入りました。

 

対する『奇蝶』の父斎藤道三も、美濃守護だった土岐頼芸(とき よりなり)を追い払って領主の座を奪取(本当は父の代の事との説もあります)して、史料『美濃旧記』では悪党扱いされている男です。

 

天文13年(1544年)9月、信秀は美濃に出兵しますが、道三によって5000名?もの戦死者を出す大敗北を喫します。

 

以後も戦は続きますが、三河に進出してきた今川軍との戦いもあり、両面戦を強いられた信秀はたまらず、天文17年(1548年)一方の美濃の道三と和睦を結び、この時条件に信秀の嫡男信長と道三の姫奇蝶との婚儀の約束が結ばれます。

 

そうして翌年の天文18年(1549年)に信長へ輿入れした『奇蝶』でした。

 

信長は、尾張の弾正忠家(だんじょうのちゅうけ)を相続したものの、父信秀の死後は若年と『大うつけ』との悪評故に、親戚一同に背を向けられ、周囲勢力からもなめられて、父の獲得した領地をどんどん失っている状況でした。

 

これには、どうせ”嫁も美濃者”という事もあったと考えられ、それに対して、『奇蝶』は父道三の力を借りて、信長のサポートをして信長の尾張統一に大きな力を貸したと言えます。

 

信長の『家督相続』の実現は、信長自身の非凡さも当然ありますが、『奇蝶』の父斎藤道三の力の背景無くしては出来なかったと言っても過言ではないでしょう。

 

尾張統一後、父信秀同様に美濃攻略に手を焼いた信長は、またまた『奇蝶』の力を使って、”美濃三人衆(四人衆)”の調略によって宿願の”稲葉山城”を攻略し、美濃平定に成功します。

 

これ以降、信長は”天下人”への道を永禄10年(1567年)8月から元亀年間、天正年間とまっしぐらに走り始めます。

 

この間に、まさに覇王となった信長の”部下の使い捨て”が始まります。

 

『奇蝶』は、浪々の身であった従兄弟の明智光秀始め、大事な”美濃衆”を覇王と化した信長の使い捨てから守ることを考えていたようです。

 

そして、遂に明智家家老の土岐一族斎藤利三(さいとう としみつ)が指揮する美濃衆を中心とした部隊が信長を襲撃する『本能寺の変』が勃発します。

 

どうも、襲撃隊の中に、豊臣秀吉・細川幽斎の関係者も含まれていたとの話もあり、当時の信長に対する恐怖と云うものは相当なレベルに達していたことがわかりますね。

 

『奇蝶』の関わり合いは、何も史料がないのでよくわかりませんが、明智光秀始め美濃衆の関係者が中核をなしていたところから、どうやら彼らのスポンサー的存在である『奇蝶』は、当然疑われそうです。

 

 

歴史作家八切止夫氏によると、江戸時代前期までは、『本能寺の変』の黒幕は『奇蝶』だと皆が信じていたと言います。

 

しかし、前述したように、、、

 

平成4年(2002年)に歴史家の岡田正人氏によって、信長創建の『安土総見寺』蔵資料から、『奇蝶』と考えられる女性が『養華院殿要津妙玄大姉 慶長十七年壬子七月九日 信長公御台』と78歳で、天寿全うされているのが確認されています。

 

もし、本当に『奇蝶』が当時信長殺しの犯人とされていれば、本人の寺に葬られることはまずないでしょうから、無関係とは言わないまでも『奇蝶』は、直接の関係はやはりなかったとするのが、正解のようです。

 

その件は別にして、織田信長と言う歴史上の”怪物”は、この幼名『奇蝶』と呼ばれ後に信長の御台『美濃御前・安土殿』になった女性に大きく育てられたのは間違いなく、『奇蝶』はやはり”歴史を動かした”と言ってもいいのではないでしょうか。

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参考文献

〇中島道子 『濃姫と熙子』(1992年 河出書房新社)

〇阿井景子 『濃姫孤愁』(1996年 講談社文庫)

〇諸田玲子 『帰蝶』(2015年 PHP研究所)

〇八切止夫 『憎しみをこめて振り返れ』(1973年 日本シェル出版))

〇八切止夫 『真説・信長十二人衆』(2002年 作品社)

〇八切止夫 『信長殺し、光秀ではない』(2002年 作品社)

〇八切止夫 『信長殺しは、秀吉か』(2003年 作品社)

〇八切止夫 『謀殺』(2002年 作品社)

国立国会図書館デジタルコレクション 『美濃國諸舊記 巻之二 土岐頼藝 松波庄五郎を取り立つる事』

〇千田嘉博 『信長の城』(2013年 岩波新書)

ウィキペディア濃姫

国立国会図書館デジタルコレクション 『言継卿記 永禄十三年二月丗日の条』

〇谷口克広 『織田信長合戦全録』(2002年 中公新書)

 

〇谷口克広 『天下人の父・織田信秀』(2017年 祥伝社新書)

 

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