西郷隆盛は、二度も『島流し』にされたのに復活した!何故か?

執筆者”歴史研究者 古賀芳郎

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明治の元勲西郷隆盛の2度にわたる『島流し』の真相を明らかにします。

 

斉彬公亡き後の薩摩の実権者島津久光公西郷隆盛の不和の原因を探ります。

 

西郷隆盛の”島暮らし”の様子を見てみましょう。

西郷隆盛は誰に、二度も『島流し』にされたのか?

最初は、奄美大島へ!

嘉永7年・安政元年(1854年)に西郷は、君主参勤の一行に加えられて江戸の勤務が始まります。

 

これは、当初から西郷に目を掛けていた君主斉彬公による特別配慮で、江戸到着ひと月ほどした頃に、庭方役を命じられ、藩邸内の庭先で斉彬公と直接話が出来る立場での江戸勤番スタートとなりました。

 

斉彬公は、始めから西郷を薩摩の重臣、自身の腹心の部下に育て上げる考えで臨み、江戸に於いて、西郷を諸侯にも紹介するなど特別扱いを始めます。

 

西郷の江戸在府は途中一時帰国を挟み4か年に及び、薩摩が直面する『国事』に謀殺される日々を送ることとなり、連れて西郷の名前は次第に知れ渡って行く事となりました。

 

 

幕政に関与し始めていた斉彬公の手足となっていた西郷は、十四代将軍の座を巡って、井伊直弼をリーダーとする紀州藩慶福(とくがわ よしとみ)擁立派と、越前藩松平春嶽と薩摩藩斉彬公が擁立を図る一橋慶喜(ひとつばし よしのぶ)擁立派の激しい対立に巻き込まれていましたが、井伊直弼が大老に就任し、事態は急転して行きます。

 

その事態の打開を図るため、斉彬公は薩摩より大兵をもって上京をしようとしていたそんな折、安政5年(1859年)7月16日に斉彬公が急死する事態となりました。

 

 

大老となった老中井伊直弼は、対立派閥の大物島津斉彬の死を好機として、反対派(将軍継嗣問題、条約締結問題、尊王攘夷問題)の大弾圧(安政の大獄に乗り出します。

 

 

斉彬の手足になっていた西郷も身辺が危険となり始め、勤皇派として京で西郷と同様に活躍していた僧月照(げっしょう)を近衛(このえ)公より託され、共に京より陸路鹿児島へと脱出します。

 

 

 

ところが、斉彬亡き後の薩摩藩には幕府に対決する気概などなく、帰国したものの追い詰められて絶望した西郷は、月照とともに護送中の船から錦江湾に入水自殺を図ります。

 

 

海から引き上げられて、月照はそのまま死亡しますが西郷は蘇生します。

 

 

処置に困った薩摩藩は、先代の藩主斉興(なりおき)公の指示もあり西郷を死亡扱いとして、奄美大島へ”菊池源吾(きくち げんご)”と言う変名にして匿うこととします。

 

 

こうして幕府の追及を逃れる形で西郷隆盛は、名目上では別人の罪人菊池源吾として奄美大島へ『島流し』となり、ほとぼりが冷めるまで3年もの長期間に亘って姿を消すこととなりました。

二度目は、徳之島から沖永良部島へ!

西郷は、島津久光によって島から召喚されて、文久2年(1862年)2月12日に実に3年2ヶ月ぶりに奄美大島への『島流し』から鹿児島に帰着しました。

 

 

今回の西郷に期待された役割は、久光公が藩兵を率いて『公武合体』を推し進める目的で上洛する、その言わば政治顧問役としてでした。

 

しかし、西郷は島津久光の力量不足を見抜いた上で、久光の上洛に反対します。

 

西郷の物の言い方もあろうかと思いますが、『田舎者の久光公には、天下の政治の策動は無理で、斉彬公の足元にも及ばない』と言う主旨の発言を面と向かってしているようです。

 

忽ち久光公と西郷の関係は険悪化しますが、大久保利通の必死の取りなしでその場は収まり、ともかく西郷は久光公の先乗りとして渋々3月13日に鹿児島を出発します。

 

 

しかし、下関まで来た西郷を待ち受けていたものは、久光公率いる薩摩藩兵を『幕府に対する倒幕挙兵』と勘違いする”攘夷志士たちの危険な動き”でした。

 

 

久光の命令では、”下関で久光公一行の到着を待って、上洛行軍に同行せよ”となっていましたが、当初から心配していた”薩摩の大兵上洛”が引き起こす危険な事態を強く感じた西郷は、一刻の猶予もないと判断し、久光公の到着を待たずに政治工作の為に上洛します。

 

 

久光公上洛を成功させるための必要な行動でしたが、当の久光公は激怒して『到着を待たなかった西郷の命令違反』を厳しく取り沙汰して、帰還してわずか二か月余りにも関わらず、再度の『遠島・島流し』の罪に問います

 

 

今回は、側近である大久保利通の必死のとりなしも久光には通じず、どこまで行っても交わらない”久光ー西郷”のふたりの当然の帰結となりました。

 

 

 

従前の奄美大島(あまみおおしま)から更に南方30㎞の場所にある徳之島(とくのしま)への流罪となりました。

 

 

 

更に、久光公が”徳之島”では刑が軽すぎると言う事で、三か月後に徳之島から更に南30㎞にある”沖永良部島(おきのえらぶじま)”へ流されて、厳しく監視の番人をつけての入牢となり、死罪に次ぐ重罪人扱いで、以前は有った扶持米も当然ありませんでした。


画像引用:ウィキベディアより肥後直熊作西郷隆盛像

一度目の”奄美大島”での3年間はどうだったの?

蘇生した西郷が、”菊池源吾”と名を変えて”流罪の身”で奄美大島龍郷(たつごう)に到着したのは、安政6年(1859年)1月12日のことでした。

 

この時の西郷は幕府の追及から身を隠すために、藩庁が匿った形ですので”罪人扱い”ではなく、藩から捨扶持ですが6石の支給があり、取り敢えず生活に困ることはなかったようです。

 

西郷は、その人格から来島二ヶ月くらいまでには、島民から慕われ、十ヶ月後には23才の地元龍郷の最有力者龍家の娘『アイガナ(愛加那)』を島妻(アンゴ)として迎えました。

 

二年近い生活の中で、一男一女に恵まれました。

 

長男菊次郎は、後に西郷家に入り西南戦争に従軍するも負傷し隻脚となりながらも、その後第二代京都市長にまで上り詰めました。

 

長女菊子は、西郷の従兄弟大山巌(後に陸軍元帥、公爵)の弟大山誠之助の夫人となりました。

 

 

西郷が身を隠して、1年余経った安政7年(1860年)3月3日に江戸城桜田門外で、大老井伊直弼が水戸浪士らに襲撃され落命する『桜田門外の変』が発生します。

 

 

幕府の権威は地に堕ち、代って朝廷の権威が見直されて、本来問題ない勅許を得ない”日米修好通商条約の締結”が政治問題化して、政局は大動乱の時代を迎えていました。

 

 

このような中、斉彬公亡き後薩摩藩の権力を握る弟久光公が、兄同様に中央の政治を動かすべく挙兵しての上洛を企画しますが、如何せん中央での人脈がほとんどなく、奄美大島に潜居しつつも、中央政界での人脈・政局に明るく、発言力のある西郷隆盛の力が必要となって来ました。

 

 

本来、兄斉彬公に重用された才能豊かな西郷隆盛を、激しく嫉妬し嫌っていた久光公ですが、やむなく西郷の盟友であり、自分の側近でもある大久保利通を使って西郷を召喚します。

 

 

こうして、西郷は3年におよぶ奄美大島での『島流し』を終えることとなりました。

二度目の”徳之島から沖永良部島”での2年間はどうだったのか?

沖永良部島へ送られた後の西郷は、前回と違い本当の重罪人扱いとなってしまいました。

 

急造りの格子の壁に屋根を乗せただけの2坪くらいの牢で、食事は出るものの、雨風吹き込む狭いその牢屋の中に一日正座して沈思黙考する毎日でした。

 

 

牢番のひとりに命じられていた薩摩藩士の土持政照(つちもち まさてる)は、仕事を続けながらも西郷の高邁な人格とやさしさにふれて、尊敬の気持ちを高めていました。

 

 

そこで、西郷のひどい住環境の改善を企画し、私財を投げうって牢屋の新築を行い、西郷も外を歩き回ることもできるようになって行きました。

 

 

そして、次第に島の子供達の教育から島民とのつながりが深くなり、皆西郷の人柄に惹かれて行きました。

 

 

そして、天下の情勢は、前回の”島流し”時と同様に、西郷の下へは届き続けており、西郷は天下の情勢に気をもみつつ、英国に襲われた故郷の様子に気が気でない日々を送っていましたが、国許でも西郷の復帰を求める声が日増しに高まってゆくのでした。

 

 

そうした中、在京の有力藩士十数名が集まり、島津久光に西郷の赦免を直訴するに至ります。

 

 

西郷への憎悪の念の強い久光も、有力藩士の死を賭した説得にとうとう最後には折れて、元治元年(1864年)2月22日に、吉井友実、西郷従道ら”召喚使”を乗せた藩船胡蝶丸が西郷出迎えのために沖永良部島に到着し、西郷は動乱の政治の表舞台への復帰を果たします。

なぜ『島流し』から二度とも戻れたの?

ひと言で言って『西郷の持つ人間力』なのでしょうか。

 

周りの人間の中に、西郷の反対者・讒言者(ざんげんしゃ)・妬み嫉み(ねたみそねみ)を持つ者などを押しのけて西郷を支える者が出現します。

 

 

これは、西郷の日頃の私心無き行動にすべての原点があると言います。

 

 

強烈に動く時代の流れのなかで、政治的に迷路にはまり込むたびに、西郷を引っ張り出す『西郷頼み』と言う”西郷待望論”が世論・公論として醸成されて行きます。

 

 

歴史の中でこういう人物が現れるのは、極めて稀だと考えられますが、これは仕組んで出来ることではないようで、時代が生んだ”英雄と言う表現がぴったり来る感じです。

 

 

この”西郷隆盛・島流し”のキーワードで見てみると、西郷隆盛は、『島流し』と言う、現実の支配層から常に追放・排除される事態に遭遇しながら、結局西郷の能力を頼み、期待されて再びその実行能力・リーダーシップに期待を寄せて仕事が託されるわけです。

 

 

この2回の追放と復帰の繰り返しは、その二度とも西郷が時代の変遷の推進者となる運命にあって、社会が西郷の手腕に託さざるをえなかったことを示しています。

 

 

そして結果論ですが、日本がその荒波を乗り切った事実(後に昭和になって破たんしますが)は、西郷の手腕に託した人たちのその時の判断が間違っていなかったことを示しているとも言えます。

 

 

西郷は『歴史』の寵児であったと言う事かもしれません。

 

異説では、英明な兄斉彬のあとを事実上継承した弟久光が、表面上は西郷を嫌っているふりをして、実は斉彬の考え通りに、陰ながら西郷を重用して行きます。

 

『島流し』は、あくまでも幕府の暗殺者の目を欺く、一種の”西郷に対する保護”行動であって、沖永良部島での牢獄の新設も、実は久光公から資金が出ていると明かします。

 

 

かなり強引で無理筋の話ですが、後日にこんな話が出てくるほど、西郷の名声にはすさまじいものがあったと言う事なのではないでしょうか。

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背後にある、有力者の『島流し』を生む”薩摩藩島津家のお家事情”とは?

跡目争い

薩摩藩第10代藩主島津斉興(しまづ なりおき)が、正室との実子嫡男斉彬(なりあきら)に家督を譲らず、江戸の町娘から斉興の側室となった”お由良の方”の子・庶子の五男久光(ひさみつ)を溺愛し、これに家督を譲ろうとしたことから、藩内が二つに割れての大騒ぎとなりました。

 

実は、斉興自身も第9代の父斉宣(なりのぶ)の庶子であり、そのため、隠居後も長らく藩政の実権を握り続けていた祖父で8代目藩主重豪(しげひで)に疎んじられたことから、その反動なのか庶子である久光の方をかわいがり、正嫡子で第8代藩主重豪そっくりの性格(蘭癖ー西洋かぶれ・あたらしもの好き)の斉彬を嫌っていたとも言われています。

 

斉彬が将軍の”お目見得(おめみえ)”であったことから、気に入らなくても斉彬を廃嫡するわけにもゆかず、斉興は継嗣の斉彬が40才を過ぎるのも構わずに、家督を譲らずそのまま藩主に居座り続ける異常事態が続いていました。

 

 

そして藩内は、藩財政を立て直した立役者の実力家老調所笑左衛門広郷(ずしょ しょうざえもんひろさと)他、斉興側近の家老たちで固められた斉興・久光派と、若手改革派の斉彬派にと別れて対立を深めて行きます。

高崎崩れ(お由良騒動)

そして藩内で”久光・お由良の方他の暗殺”の噂の絶えない最中の嘉永2年(1849年)12月3日に、久光派が動きます。

 

 

 

船奉行の高崎五郎右衛門(たかさき ごろうえもん)ら3名の斉彬派重鎮が捕縛されて有無を言わさず即日切腹を命じられ、その後関係者50数名が切腹、蟄居、遠島(島流し)にさせられます

 

 

久光派と言うか斉興の、斉彬派に対する”やられる前にやれ!”と言わんばかりの先制パンチでした。

 

 

徹底した斉彬派への弾圧が行われ、斉彬派の主だった者で残ったのは本人の斉彬ひとりだけと言う有り様でした。

 

 

しかし、斉彬派の島津家家臣が多数逃げ込んだ島津家の親戚筋、斉彬の大叔父にあたる福岡藩の藩主黒田長溥(くろだ ながひろ)は、実家の騒ぎ(お家騒動)を放置できず、実弟の八戸藩主南部信順(なんぶ のぶより)と共に、老中筆頭の阿部正弘(あべ まさひろ)に薩摩藩の騒ぎの事態収拾を依頼しました。

 

 

結果、従来より島津斉彬の先見性を大きく買っていた老中阿部正弘は第12代将軍家慶(いえよし)に働きかけ、嘉永4年(1851年)2月2日に、斉興へ徳川将軍家慶から事実上の隠居勧告が出て、家督はやっと斉彬へ譲られることとなりました。実に、斉彬43歳のことでした。

西郷の立場

この『高崎崩れ』と言う事件は、西郷が23才の冬から翌年初夏にかけての事でした。

 

西郷の父吉兵衛ともども私淑していた島津家支族の赤山靱負(あかやま ゆきえ)も事件に連座して嘉永3年(1850年)3月4日に切腹を賜りました。

 

西郷は赤山の血染めの肌着を形見として受け取り、一晩中抱いて泣き明かしたと言います。

 

 

赤山の遺志を継ぎ、西郷は斉彬擁立に向かって動き始めます。

 

この騒ぎで、西郷の盟友大久保利通も父の子老(おおくぼ しろう)が連座して喜界島へその後6年にも及ぶ遠島となり、大久保自身も職(蔵方下役)を辞せねばなりませんでした。

 

 

こうした体験を通じて、西郷と大久保はより深いつながりを持つようになり、以後薩摩の若手を牽引する代表的な人材となって行きます。

 

 

西郷は、この後に起こった”斉彬の急死”に関しても斉興ー久光一派の毒殺を疑っており、終生久光と仲が悪かった原因ともなったと言われています。

 

 

この『高崎崩れ』の事件は、幕府を倒して新生日本を形作った西郷隆盛と大久保利通らふたりの運命を大きく変えて行ったとも言えそうです。

西郷隆盛が『島流し』となった島には、どんな西郷ゆかりの史跡があるの?

奄美大島龍郷町

①西郷松
西郷隆盛が上陸した場所を示しています。西郷の乗って来た船の艫綱を括りつけた松と言われています。

②西郷南洲謫居(たっきょ)跡
島妻アイガナ(愛加那)とともに暮らした民家です。

沖永良部島和泊町

西郷南洲記念館
西郷隆盛が、文久2年(1862年)8月から元治元年(1864年)2月までの1年7ヶ月間牢居した施設があります。

まとめ

『明治維新』最大の英雄と言われる”西郷隆盛”の雅号は良く知られている通り、『南洲』と言います。

 

これは、当時”南の果ての島”であった”沖永良部島”に流刑に処せられたことから、付けたものだと言われています。

 

最初は、『安政の大獄』が始まって間もない安政5年(1858年)7月に、実行者の幕府大老井伊直弼への抗議行動を起こさんとする最中、藩主島津斉彬の急死により、実権を握った前藩主島津斉興の手によって、西郷は安政6年(1859年)1月に奄美大島へ流されます。

 

『安政の大獄』の関連記事

 

そして、2度目の遠島は、藩の実権を握る島津久光に”命令違反”を問われたもので、まるで西郷が最初の奄美大島から復帰するのが早すぎたかのように、大島から帰還後たった3ヶ月で、より遠い徳之島から更に遠い沖永良部島へ、今度は本当に罪人として流されてしまいました。

 

しかし、幕末のかなりの人材が、この安政5年(1858年)から元治元年(1864年)辺りの政治活動の最中に落命していることを考えると、西郷は暗殺の魔の手をうまく”島流し”で潜り抜けていたとも考えられます。

 

西郷は、沖永良部からの帰還後、薩摩軍に守られる形で行動していますので、幕末暗殺団の首魁である長州過激派と幕府浪士隊(?笑)は手を出せなかったので安全だったことになります。

 

 

戦時の教訓として、生き残る事も大事なことな訳ですから、西郷の維新前後の活躍は”生き残ってこそ”のものであったのです。

 

暗殺される可能性がある一番危険だった時期を島流しに遭って、結果的に”離島へ避難”出来ていた訳です。

 

 

しかし、西郷の実直さがあってのものですが、島での生活は西郷の精神性をより磨く時間を与えてくれたことにもなり、大久保ら新政府(革命軍同志)の人脈は、その西郷を見殺しにせずに政局情報を与え続け、その能力を錆びつけることなく発揮することを可能にしました。

 

 

つまり、常にエンジンがスタンバイ状態であったので、復帰後の西郷は即戦力となり得たわけです。

 

もし西郷が、あの時離島でボーッと暮らしていたとしたら、復帰後に中央政界で、いきなり薩長首脳陣、朝廷関係者や幕臣勝海舟らと息詰まる政治折衝など無理だったでしょう。

 

西郷にとって大変な”島暮らし”であったことは、言を待ちませんが、反面、『島流し』の時間は、安全に英気を養うよい機会を天が与えたと言う事も言えそうです。

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参考文献

〇西田実 『大西郷の逸話』(2013年 南方新社)

〇佐々木克 『大久保利通』(2004年 講談社学術文庫)

ウィキベディアお由羅騒動

奄美まるごと情報局

龍郷町ホームページ

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