徳川家康は貿易将軍と呼ばれた!駿府外交で日本は列強になるぅ?

大御所徳川家康の『貿易錬金術』を明らかにします。

徳川幕府の『鎖国』は嫡男秀忠の真面目すぎる性格から現実化していきました。

17世紀に幻と消えた東南アジア日本人町滅亡の秘密に迫ります。

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徳川家康は何のために”貿易”を考えたのか?

生涯50回以上の合戦を戦って来た”歴戦の強者”徳川家康の初期の”貿易”の動機は、当時の戦国大名たちと同じように、日本では手に入らない合戦用火薬の原料の『硝石』の入手が目的でした。

このために、京・堺の豪商ルートの他に、布教の為に来日するバテレン(スペイン・ポルトガル系)たちが持ち込む火薬・硝石・鉛・武器など軍需物資に興味を惹かれていました。

長年”一向宗徒”に悩まされて来て、『宗教』の持つ危険性に人一倍敏感なはずの家康が、”キリスト教布教”を大目に見て来た理由がそこにあります。

しかし、”織田信長(おだ のぶなが)・豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)”と同様に、天下の帰趨が見え始めて来た時、今度はその”貿易がもたらす果実”である『』の方に引き付けられて行きます。

勿論、国力をつけると言う意味合いでの”貿易収入”ですが、その得た収入の価値を減価させないために、今度は『黄金』で所有すると言う考え方へ向かいます。

(きん)』の話になると一番目立つのが豊臣秀吉ですが、人間ですから信長も家康も同じようなものじゃないでしょうか。(笑)

秀吉は貿易の保護し促進を図っていましたが、貿易船が入港すると積載品の内”生糸・金・鉛”などの重要商品は独占的に買占めを行なっていました。

家康も秀吉のやり方を踏襲して貿易の保護・発展を図っており、そして生糸取引に慶長9年(1604年)から”糸割符法(いとわっぷほう)”を実施して幕府の指定する豪商に有利な買占めをさせ、さらに”金・銀”貿易に非常な関心を寄せていました。

秀吉の”蓄財法”は、金銀鉱山の直轄化と主に生糸貿易の独占によるものでしたが、家康は金銀鉱山の直轄化とさらに採掘法と精錬法の革新で産出量の拡大化も実現しており、貿易の独占も含めると秀吉を上回る利殖家です

海外へ流出する”銀”にも神経質に気を使っていて、少なくとも幕末の老中達よりは、理に敏いと言うか国富の保全に関して知識も見識も持ち合わせていました。

では、”天下人”となって以降、”政権政策”としての『貿易』に関しては、どう考えていたのか。。。”大御所”となった家康の動向を次章で見てみましょう。


(画像引用:ウィキペディア朱印船

徳川家康の『駿府城』はただの”隠居所”だったのか?

慶長8年(1603年)に征夷大将軍となり、慶長10年(1605年)に将軍職を嫡男秀忠へ譲り”徳川氏の世襲体制”を世に示し、慶長12年(1607年)に駿府城へ移って、江戸の将軍』と『駿府の大御所』と言う徳川の支配体制を固めました。

ここで昔で言う『院政』体制を敷き、諸事細かな政務は将軍秀忠が決裁し、国政の重要事項はすべて大御所家康が取り仕切りました。

つまり、『貿易』と言う外交政策に関わる『国事』は大御所家康が決めて行くことになります。

駿府城には、幕府の俊英を集めて、

 

  1. 財政・政務
  2. 外交事務・寺社行政・文教政策 
  3. 朱印船・貨幣・貿易・鉱山・農政
  4. 外人ー外交顧問

の4部門を直属に設置して家康を支えました。

形式上は将軍政治をサポートする一部門として存在した駿府チームですが、実際は幕政を家康が動かすための政策推進ブレーンとして機能しました。

組織の陣容から見ても、『駿府城』は大御所家康の『隠居所』などではなくて、実質の”日本政府・首相官邸”であったことが分かります。

徳川家康は外交政策へ専念のために”将軍職”を譲ったのか?

豊臣秀吉は海外政策(朝鮮出兵)へ専念のため”関白職”を秀次に譲り”太閤”となりましたが、”大御所”となった家康もそうだったのでしょうか?

天下を完全に掌握しきっていた秀吉と違い、家康は慶長5年(1600年)9月15日の『関ケ原の戦』で反徳川勢力の大半を切り従えたとは言え、未だ形の上では豊臣家の家老に過ぎなかったのです。

つまり大坂城で”天下に君臨する豊臣宗家”の存在は、家康にとって大きな懸案材料であり、立てねばならない”目の上のたんこぶ(二重公儀体制)”でした。

そうした状況下、嫡男秀忠へ将軍職(政権)を譲ると言う行為は”この政権は徳川家の『世襲』”であることを世に(特に豊臣勢に対して)知らしめることが第一義であり、とても”外交に専念するために将軍を譲った”などとは言えないのでないかと考えられます。

とは云うものの、、、

”将軍としての一般政務”を秀忠に移譲した家康は世に”隠居”のフリをし、政策スタッフを引き連れて”駿府城”へ移り、大御所政治』を開始して”鉱山増産と貿易拡大”による”資金稼ぎ”に入ります。

これは、先達の豊臣秀吉がやっていた錬金術の手法をそのままと言う事になりますが、『貿易実務』に関しては家康の『戦い』を物心両面で支えて来ている茶屋四郎次郎(ちゃや しろうじろう)ら豪商を使い、『鉱山』に関しては”秀吉は生野銀山などの収入を自分のものとすることまで”でしたが、家康は旧武田遺臣の大久保長安(おおくぼ ながやす)ら”鉱山実務のテクノクラート”によって技術革新による増産をさせ、生野銀山・佐渡銀山などの生産量を従前の数倍に拡大させていきます。

ピーク時には、日本の銀の輸出量が世界の銀生産量の40%近くを占めていたと言われています。

家康は、こうして生み出した豊富な資金を使うことによって、東南アジア地区の日本の『朱印船(しゅいんせん)貿易』を、ヨーロッパ列強のアジア貿易を圧迫するほど成長させて行きます。

つまりそれほど、家康の駿府における『大御所』政策サポートチームの実力は凄まじかったようです。

そうこうする内に、家康がもっとも恐れていた豊臣秀吉シンパグループ(豊臣恩顧の大名)の大物たち(加藤清正、浅野長政、堀尾吉晴、池田輝政、浅野幸長、前田利長ら)が、慶長16年(1611年)3月28日に行われた”家康・豊臣秀頼の二条城会見”の後、相次いで世を去って行きます。

もう、豊臣宗家は外堀を埋められた裸城同然の状態になり、とうとう慶長19年(1614年)7月26日に『方広寺鐘銘事件』と言う”難くせ”をつけて、”満を持して”懸案の豊臣家滅亡(慶長20年ー1615年)を実行(大坂の陣)して行きます。

その時点で家康は、すでに大軍を起こして動かせるだけの”資金力”を十分に得ていたわけです。

どうも、”家康外交(貿易)の目的”は、”徳川の政治体制を確立させるための資金作り”の面に特化していて、”日本と世界を考える”と言うような(国際政治の)観点は無かった感じですね。(笑)

余談ですが、、、

因みに、慶長20年(1615年)5月7~8日の大坂城落城時に豊臣家ご金蔵には一体いくらの財宝が残っていたかと云えば、家康が関ケ原以降に豊臣家にあれだけ散々全国の寺社仏閣の修理・建立を行なわせて散財(浪費)させていたはずでしたが、なんと金28600枚、銀24000枚(現在価値で1500~1600億円でしょうか))も存在したと言われています。

一方家康の方は、翌年元和2年(1616年)4月17日に駿府城で死去した時には江戸城に400万両、駿府城にも200万両で合計600万両(現在価値1800億円位でしようか)を秀忠に残したと言われています。

どうやら死亡時は、秀吉の方が遺産額が多くておそらく3~4千億円くらいあった感じですけど、二人とも”貿易”でずい分儲けたんですね。

徳川幕府にとって『鎖国』と『貿易』の関係はどうなっているの?

私などは単純に”『国を閉じれば(鎖国)、貿易は当然なくなる』これでは国が成り立たなくなってしまうのではないか”などと考えてしまいがちですが、当時の徳川幕府の『鎖国』に対する腹積もりはどんなだったのでしょうか?

『鎖国』に関しては、当時日本国内のキリスト教の信徒数が70万人(当時の人口比約5%弱)にもなり、そろそろ為政者サイド(徳川幕府)も危機感を感じ黙認出来なくなっていて、国家を揺るがす事態になる前にキリスト教宣教師達のもたらす『貿易』のメリットを捨ててでも『禁教』に踏み切ったわけです。

しかし、『禁教令』の後も宣教師たちの活動は止まらず、国の存立を危うくする反政府的な思想を万延させるキリスト教の侵入を排除するため、更に強力な政策である『鎖国』に踏み切りました。

国を発展させる大きな収入源を失うリスクを犯してでも”徳川幕府の存立基盤の保全を優先”させたと思われます。

豊臣秀吉の場合、初めて『禁教令』を最初に出したのは、薩摩の島津も帰順して九州平定が終わった天正15年(1587年)6月19日に、征討からの凱旋途上で博多を訪れた時でした。

島津を屈服させるのに必要だった九州のキリシタン大名や信徒の協力がもう必要なくなったことと、丁度キリシタン大名の大物豊後の大友宗麟(おおとも そうりん)と肥前の大村純忠(おおむら すみただ)が死去した直後でした。

もう配慮する相手がいなくなったため踏み切ったような感じです。

やはり、秀吉も”宣教師たちとその広めるキリスト教”に対して家康と同種の”ヤバイ感じ(反政府運動の芽・侵略の先兵)”を感じていたのでしょう。

その後、慶長元年(1596年)10月に起こった『サン・フェリペ号事件』により、”スペインが宣教師を侵略的植民地化の先兵に使っている”事が露見して、キリシタン史上有名な『二十六聖人殉教』の大弾圧事件が起こりますが、貿易そのものには致命的な影響はありませんでした。

秀吉の死後、『関ケ原の戦』を経て政権を引き継いだ徳川家康は、秀吉の引き起こした『朝鮮出兵』による国際関係悪化の修復に取り掛かり、中国・朝鮮との国交回復・交易復活に着手し同時に『朱印船貿易』を再開します。

スペインのフィリピン政庁との間でも海賊の取締りと朱印船の数についての取決めはしたものの、求められた布教に関してはきっぱり断っているなど、正式には”禁教”を通告して、キリスト教に一線は引いていたようです。

しかし、家康政権下の日本は、布教活動は禁ずるものの(実は黙認でした)国としての貿易はキリスト教国とも促進する立場で、禁教と連動して貿易が消滅していくと言う関係にはなかったようです。

では、『貿易(特に朱印船貿易)』に本当に影響を与えた『鎖国』政策へ至った本当の原因は何だったのでしょうか?

正式に『鎖国政策』をとったのは、、、

鎖国令(第一次)』と云われるものが出たのが、寛永10年(1633年)2月28日とされていますので、これは第3代将軍家光の時代で当然家康ではありません。

その後矢継ぎ早に『鎖国令』が出されて、寛永13年(1636年)に”長崎出島”以外での外国との取引は禁止され、日本人の海外渡航・帰国も禁止され、寛永14年(1637年)秋~翌年春までの『島原の乱』のあと、寛永16年(1639年)7月5日の”カレウタ船の渡航禁止令”の最後の鎖国令をもって『鎖国』はついに完成を見ました。

しかし、狙いはもっとも危険と考えられた”ポルトガルの追放”と、”豊臣方の残存勢力とキリシタン信徒が主体の海外の日本人町の壊滅(幕府の棄民政策”を意図したもののようです。

『貿易』によって得られる利益よりも、侵略勢力と合体しかねない”海外に残存する反徳川勢力の巨大化”を恐れたと言う事なのでしょうか。

家康の時代の終焉とともに、事態が進行していくものですから、こと『鎖国』に関しては第2代将軍以降の責任のようですが。。。

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徳川家康の死後、国の外交政策を一変させた第二代将軍秀忠は何を考えていたのか?

実は、『貿易推進・キリシタン黙認派』だった家康も、慶長18年(1613年)初に発覚したキリシタン信徒の幕閣側近横領事件である”岡本大八(おかもと だいはち)事件”に関連して、側近金地院崇伝(こんちいん すうでん)に起草させ”将軍秀忠名”で、慶長18年(1613年)2月23日に『バテレン追放令』を天下に発布していました。

第二代将軍秀忠は、家康死去後あまり間を置かない元和2年(1616年)8月8日に『ヨーロッパ商人の貿易地制限令』を出して、全ヨーロッパ船の寄港地を平戸と長崎に制限しました。

これは、何でもないような法令のようですが、実は従来の禁教令をさらに厳格に適用する性格のもので、当局のバテレンに対する対応(迫害)は苛烈を極めて行きます

元和9年(1623年)末、更に『海外交通貿易制限令』が出され、日本人のマニラへの渡航が全面禁止、ポルトガル人および家族の国外追放、日本船(朱印船)へのポルトガル人航海士の乗船禁止などが打ち出されています。

これで、日本の貿易船である”朱印船”の海外渡航も大きく制限されることとなりました。

異説では、、、

徳川秀忠は、家康の『駿府』にかける情熱(城塞としての高度化、清水港の国際港化、駿府の独立国化、巨額の蓄財等)がハンパなものではないことから、徳川家康の死後にこの駿府の機能を完全に破壊してしまいます。

そして、家康の駿府での業績を『矮小化』し、徳川の正史からも実体を改ざんして”駿府における家康の各種業績”などなかったかの如く消し去ってしまいました。

つまり、『駿府』は晩年の”徳川家康のただの隠居所”であったことにされてしまいます。

と同時に、家康の『神格化(大権現)』に取組み、経歴の改ざん・各種出来事の創作、新田源氏以来連綿と続く『徳川物語』を創作して、徳川幕府の政権の正統性を確立させた、と言われています。

要するに、家康のやったことは『貿易推進』も含めてすべて破壊しようとして、『鎖国』へ踏み出す政策転換を行なったと言う主旨ですね。

豊臣秀吉も『出自(しゅつじ)』の問題からか政権を取るまでの話を作り直している形跡(各種”太閤記”等)が多々あるようですが、いくら徳川秀忠が幕府の総力を挙げて”家康伝説”を創作・正当化しても”怪しさ”がぬぐえず、未だに家康の経歴の真相さえも謎のままなのです。

この種の話は、戦国大名(成り上がりもの・下剋上の世を生き抜いてきた猛者たち)の宿命なのかもしれませんね。

そのまま”貿易政策”を推し進めていたらその後の日本はどうなっていたか?

よく言われる話では、、、

あのまま『開国・貿易推進』をしてゆけば、”日本はイギリスのような『覇権国家』になれたのではないか!”と言う議論です。

そして、、、

”中国との戦いはもっと前倒しであったかもしれないが、アメリカとの戦争はなかったのではないか、つまりあのような大東亜戦争の壊滅的敗戦状態へ追い込まれることはなかったのではないか”と言う希望的観測です。

では、当事者である”徳川家康”を巡る当時の状況から類推してみましょう。

徳川家康の『貿易』推進の大きな目標に”中国との正式な国交と貿易”と言うものがあります。

これは、明国からの拒否又は無視に遭い、さすがの家康も結局成立させる事が出来ませんでした。

ただし、中国商人たちはしっかり者で政府の言い分とは関係なしに”密貿易”と云う形でどんどん来航して、事実上問題なく実体貿易は成立して行きます。

余談ですが、、、

まぁ、一応明国が無視した理由は、秀吉の大陸侵攻の舌の根も乾かないこの時期にどうして日本人が信用できようかと疑ったためとされています。

しかし、もうひとつの理由があるとすると、中国朝廷の国交はよほどの事がない限り『朝貢(ちょうこう)』と言う形しか受付ません

家康が正式な『国交』と言ったところで、もともと『東夷』とあざけっていた蛮夷の日本人と対等な付き合いなどするわけがないのです。

対する家康は、おそらく『朝貢』など考えもしなかったのではないでしょうか。

話を戻しますと、、、

結局、家康の『朱印船貿易』としては、フィリピン以南の東南アジア諸国との取引が主体となって膨らんで行きます。

徳川時代の朱印船貿易は、慶長5年(1600年)~寛永10年(1633年)くらいが目処なので、寛永10年に『奉書船貿易』に切り替わるまでとすると約30余年くらいとなります。

実体としては、『大坂の陣』と家康死後の元和2年以降に膨れ上がって行きます。

例えば、輸出品ですと最大のものは『銀(丁銀)』ですが、最大時16万5千kg/年輸出されています。

この当時の世界の産銀量は42万kg/年くらいとされていますので、日本の世界貿易市場における『銀』のシェアは40%近いものとなり、世界中の商人が群がり寄ることになっていました。

しかも中国は通貨に銀を使っていたので、際限なく銀需要があり、日本は生糸が欲しかったのでこの貿易はピッタリ成立する訳で、ドンドン拡大して行きます。

東南アジアと云っても、貿易港に品物(生糸)を持ち込むのは中国船と言う事で、所謂『三角貿易』が成立して行くことになります。

鎖国』後は、制限が加わりますので量的には減少しますが、長崎出島を窓口に徳川幕府が独り占めして『貿易』を続けて行き、海外側は中国とオランダが日本市場を独占する形になってしまいました。

朱印船貿易で日本の商人たちに圧迫されて倒産しかけていたオランダは、日本の『鎖国』のお陰で完全に息を吹き返し、中国船も大きな利益を得ることとなって行きます。

日本の『鎖国』は、徳川幕府が海外からの反乱分子の侵入を阻止に成功した代わりに、日本人の世界観の縮小と情報不足を生み、ヨーロッパ列強のオランダの一人勝ちと中国人に大きな利益を与えました。

そして、本題ですが、、、

”朱印船時代”の日本は、前述のとおり巨大な産銀量のお陰で、強大な貿易力で東南アジアの貿易都市を席巻して行きます。

有名なタイ国のアユタヤでの山田長政(やまだ ながまさ)に代表される日本人町が主要貿易港に形成されて行きます。

そこで起こっていたことは、武力・財力・知力に長けた日本人たちへの現地人のやっかみと反感、日本資本に押しのけられた華僑とヨーロッパ列強との衝突です。

それはやがて、現地人の反感を利用した華僑とヨーロッパ商人の謀略による日本人排斥運動』を巻き起こして行きます。

まさに、現代と同じような事が起こっていたんですね。

原因は”生真面目な日本人のオーバープレゼンス”にあります。

巧妙みに現地化して地元に溶け込んでいく華僑と、あくまで主人面で押し通していくヨーロッパ商人たちと比べると、どうも日本人は中途半端なんでしょうか?

象徴的なことは、寛永7年(1630年)アユタヤで現地政権の政争に巻き込まれる形で毒殺された山田長政(やまだ ながまさ)の事件と寛永9年(1632年)現地政権によって焼打ち皆殺しにあったアユタヤ日本人町です。

この『焼討ち皆殺し事件』に関して、現地住民は手を打って喜んだと言います。

ヨーロッパ商人と華僑の謀略にしてやられたようです。

『弱い者ほど残忍な行為に走る。』と言いますが、日本人はそれほど怖がられる存在になっていたようでした。

つまり、あれから、もし日本が『鎖国』をしないで、『開国のまま貿易戦争』を継続していたら、徳川幕府は全力で海外戦略に取り組まねばならなくなっていたことだけは確かです。

結果は、想像も付きません。

私見ですが、、、

あの時の徳川秀忠の政策は、実は”大御所家康の考えを踏襲する形で取り進めて行った”と考えるのが、案外妥当な線ではないかと考えています。

こう云ったら怒られるかもしれませんが、この規模の国家戦略を描いて実行出来る器量は、恐らく『徳川秀忠』にはなかったのではないかと思います。

彼は、自分の『分』を知っている知恵者だったのでしょう。

まとめ

戦国時代末期の『三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)』の中で、とりわけ人気がない徳川家康ですが、その家康がじつは非常に熱心に『貿易』をやっており、一部では『貿易将軍』と言われていたとの話です。

生涯で50数回の”合戦”に臨み、完敗したのは武田信玄(たけだ しんげん)との『三方ケ原の戦』だけと言う猛者の武将でした。

天下人となった信長・秀吉との関わり合いの中から、彼らの失敗を糧として、政権奪取に成功し日本史上まれな長期政権の基礎を作り上げました。

その中で重要な『貿易』と『鎖国』への道筋をつけたのですが、あまりに上手くやり過ぎた為に、後継者から家康を越える人物が出てこなかったこともあり、結果的に日本人を狭い『檻』の中に閉じ込めてしまいました。

家康は高齢まで第一人者として頑張り続けて、豊臣家滅亡を達成して初めて徳川政権を安定させることに成功したのですが、あまりにも時間がかかり過ぎてそのあとまで手が回らなかったようです。

家康の役割がそこまでだったと云えばそうなのですが、『駿府政権』を動かしていたのは、あながち”豊臣対策”だけでなく、”その後の日本の戦略”も考えの中にあったのではないかと思うので、もう少し若ければと残念に思う次第です。

しかし、家康が『朱印船貿易』を伸ばしたおかげで、実はその後の日本の行くべき道も示されていたように感じますが、残念ながらそこまで気が回る後継者がいなかったのが、『鎖国政策』を堅持したまま無為に260年も過ごしてしまうことにつながりました。

家康の死後に、もう一度100年後くらいに再び家康のような人物が現れていたら、おそらく『鎖国』を段階を追って解除しながら、対外政策を発展させていたでしょう。

事態が大きく変わることはなかったにしても、少なくとも目が世界に広がっていたに違いないので、近代をもう少し違った未来へ持って行けたかもしれません。

江戸時代初期に東南アジアの日本人町で起きていたことは、その後の日本を変える知恵となったはずですが、それを生かせなかったことが20世紀の出来事を生んでいるような気がします。

もっとも、現在も同じ状態なのかもしれませんけどね。

参考文献

岩生成一 『日本の歴史14 鎖国』(1979年 中公文庫)

小倉貞男 『朱印船時代の日本人』(1989年 中公文庫)

徳富蘇峰 『近世日本国民史 徳川幕府鎖国篇』(1982年 講談社学術文庫)

張慧珍 『徳川家康の駿府外交体制』(2013年 WASEDA RILAS JOURNAL)

 

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